認知の歪み
櫻、櫻、櫻、今年も変わらず、現世の果てまで櫻はちやほやされるのでしょう。
国花であり、形(なり)も大きく派手で華やかな櫻。
15年ほど前、観光客が櫻の花にカメラを向けていたその下でたんぽぽが踏まれていました。
秋も冬も同じく、櫻は静かに花を内包している最中、その頃の櫻を見に来るひとは、まあいない。
40年近く前、仲間と飯盒炊飯に行った先で、80を超えた男性が急に怒り出したことがある。
「何が櫻の下で飯食ったら美味いだ!」
突然のこと、皆一応に驚いたが、その後のお話でわたし達とは違う内景で苦しんでおられたことを知る。
戦時、友が櫻の木の下で朽ち果てていく姿、水溜りの水で飯を炊いたことなどを切々と独り言のように呟くその方の目が、
深い深い湖のような緑苔の色になっていったことが鮮明に蘇る。
また、橋を渡った母の入退院もこの櫻の頃だった。
退院する日のタクシーの中、洗面器の中のプラスチックのコップがカーブするたびにカラカラ鳴って、
隣で痛い痛いという母の脇腹にあるピンポン玉くらいの塊を摩っていた。
天氣のいい日にお花見しようねと、多分無理だとわかっていながら、その場凌ぎに言ったものだった。
花が散った頃、母は橋を渡る。
それももう12年も前の話。
また30年も前、あの川沿いの櫻の下を通ると涙が出ると、ある照明さんが呟くその言葉は、記憶によるものではなく、生命に歓喜する震えなのだけれど、
わたし自身も、川沿いの櫻のトンネルから空と満開を見上げると、五感を備えられここへ招待された歓びの満足に満ちている。
その傍ら、過去も凝縮されここにあり、ぎゅうっと閉じ込められている。
飯盒炊飯を共にしたその時80越えの方や仲間、その時のわたしや空や櫻や土や石、踏まれたたんぽぽや踏んだ観光客やカメラ、
何もかもが同時にある。
櫻だけがちやほやされる
どうしてこう感じるのか、
初孫であったわたしは周りの大人たちに人形でも可愛がるように可愛がってもらった。
で、それは一瞬だった。
いとこが間も無く生まれ、トンビがパンでも攫うように、大人たちの興味や可愛がる心はいとこに移った。
学業での優劣、形の美醜、親の力の優劣‥。
そんなことから受け取る虚しさが、わたしの認知を歪ませてきた。
櫻は櫻、樹液が完全なる計らいによって櫻の花と開いていく。
香り、色、形、息吹、全てが櫻となって。
櫻は櫻。
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