昨日は母の祥月命日でした。母が好きだった江戸紫色の花と、オレンジ色の元氣漲る花と、好物の和菓子とチョコを持って墓参りしました。
この蕾は娘がまだ大学生だった頃、母の日にくれた鉢植えの紫陽花で、玄関に地植えにしたら、毎年毎年見事に育ち、いち年の巡りを現してくれます。
母恋いしどももう、孝行は出来ないけれど、子どもたちにしてあげられることがある。
周りにいるひとに出来ることもある。
✨✨✨
先日、なんか凄い健康機があると聞き、(詳しい説明は端折りますが、要はその機器に一定時間座ると、セロトニンが大量に脳内に出て健康になるというもの)
「こんなのが一家にいち台あれば、医者にも行かず、サプリメントも必要ないね」
とある人に話していたら、
「そんなに長生きしたいかねえ?」
なんて言われたものだから、
「長生きしたいんじゃなくて、日いち日いち日、ごきげんで過ごしたいんです。」
と返しました。
日々目指すものは自分のきげんがよいこと。
それはYogaの最後に唱える一回目のシャンティで、
自分がきげんがよいということは自ずと感謝や恵みを感じる状態であり、
それは周りのものに対して寛容性や慈悲、慈愛が滲み出て来ること。
これは二回目のシャンティで、
自分も周りもそうであれば、それは垣根なく無限に拡がって行くこと。
これは三回目のシャンティ。
それを放下する。
放下は調和でありUnity。
今より年若いとき、外に外に向く意識はまるで、置いて行かないで!
と叫んでいるようであったり、
あなたのことを大事に想っていると表現することに躍起になって自分を(家族を)蔑ろにして行動したときもあった。
置いて行かないで!かな。
もちろん、それだけではなくて、いたたまれずに無心に動いたこともあるけれど、からだはかなり蔑ろにされてきた。
社会から嫌われる勇氣(岸見先生のベストセラー本)を持つという自分に対峙する度胸がなく、えへらえへら薄汚れた保身で駆け回っていた部分もあったのかもしれない。
誰にわかってもらうことも要らない、とわかると、どんどんクールになったり、熱く愛が込み上げたり、体現は変化するが、
それは内側が豊かになってきたからだと感じている。
帯状疱疹の神経痛も坐骨神経痛もなにもかも、全てが有り難い。🙏
だから、必死になって痛みを取ろうとあまり思えない。
この痛みが無ければまた、意志に振り回されるかもしれない。
衰えてきてよかった。
すぐに回復しなくてよかった。
順調におばあさんになって行きます。
めでたしめでたし。