正直なひと
ヒヤシンスはメキメキと、球根の漲る力が内側から押して押して押し上げてあっけなく花を開きました。
咲き方が出産のようでアッパレでした。
玄関にある尻尾姫のおしっこマットの臭いを一蹴するほどの花の香り。
ああ、香しい〜
鼻呼吸が深みを増します。
近くの杜で30年余り太極拳を指導しておられた御婦人のお話です。
その太極拳の先生は、毎朝杜に溶け込み、まさに大地に根ざした落ち着いた佇まいで、早朝の清らかな杜のプラーナそのものになっておられました。
落ち着いた、ゆったりとした声を散歩途中によく聞いたものです。
しかしそれもこの2年くらい前までで、最近は生徒さまだけで、自主的に鍛錬されているようです。
その先生を先日橋の袂で見かけました。
座った姿勢のまま、軽く體を動かしておられたので、近づき、お話を伺うと、数年前に病氣をされ、生活が大変だったということでした。
リハビリの話などでは、
療法士さんが、画一的な理解で、ひとりひとりの多様な體がわかっていないという話をされ、わたしもリハビリを一年続けた身としては全く同感で、話が次々拡がりそうでしたが、体操の邪魔になるからとわたしの方から早々に切り上げました。
體のことをあまり注意して観たことのない方は、そんなもんかいなと何の疑問も感じることなく組まれたメニューを熟すことが出来るのでしょうが、流石に長年太極拳をされてきた熟練者、マニュアル通りの扱いでは疑問が膨らむのも大変理解出来ます。
わたしも同じことを感じていましたが、これは感謝がないというようなそういうことではありません。
療法士さんにマッサージしてもらう時間は確かに待ち遠しかったのだけど、
何せ療法士さんは20代、太極拳の先生やわたしの息子より若い世代。
高齢の、からだごとに携わるわたし達をわかるには程遠く‥。
結局、自分で工夫して動いていると言われていました。
然り。
その先生が先日スムーズに歩いておられる姿を見つけ、
「こんにちは、先生おげんきになられたんですね?」
と、声を掛けてしまったのです。
先生は、首を傾げながら
「ううん、げんきとは‥。」
という解答。
あほかわたしは、
要らんこと言ったな
と小さくなってしまいました。
病氣と言っても脳から来る後遺症、すっきり治るなんてことはあるわけもない。
ですが、違和感など微塵も見えない歩きをされておられることが嬉しくて、よく考えもせず咄嗟に出た言葉でした。
かなり落ち込みました。
申し訳ないことをお聞きしたと。
わたしも一昨年股関節の手術をして、骨粗鬆症すれすれであるため、セメントを流して器具を留めているし、後ろからバッサリ切られているから、お尻の筋肉は崩壊し引き攣れ、脚長差も1.5センチあり、これはどんなに筋トレやストレッチなどしても埋まるものでもなく、それでも舞台に立つしクラスもするし、お散歩もするのだけど。
だから、おげんきですか?
なんて言われても、面倒だから仕方なく
「はい、ぼちぼち」
なんて言ってはいるけど、完治なんて、3回死んでもないと思う。笑
脳もそうだけど一回人工にしたら、あの天然の滑らかさはもうない。
わたしも平氣で動いていると見えている受講者さん達や近所の方々には、
「完治してよかったですね」
と温かい言葉をいただけるのだけれど、
実は全然、ぎこちないし、引き攣るし固いし、アライメントが崩れているから、あちこちが駄々崩れしている。
そんな体験を積み重ねているのに、先生に掛けた言葉が
それか!
愛がない。
救われたのは
「はあ、ぼちぼち」とか、
「はい、おかげさんで」
と言われなかったこと。
先生が正直に、自分は今げんきとは言えないことを、そのまま表現してくださったこと。
適当に、当たり障りなく、のど越しのよい言葉だけを躱していれば、いずれ自分の中の矛盾に苦しむ。
なら、はいとは言わず、流れが変わろうが真摯に伝えることは清らかだし、精神を汚さない。
なので、今の自分をそのままに伝えようとしておられた姿に、長年寒い雪降る朝も蚊が群がる夏も大地を踏み、杜の息吹と共に真っ直ぐに生きて来られたことを理解したようで、まだこういう素敵な方がいると胸が高なった。
言葉は底知れず大事だ。
適当な嘘で汚さずに大事に言葉を選ぶことはその人となりだし、どれだけ大事に生きているかを現している。
先生、陰ながら少しでもからだが生活に溶け込んで行かれることを祈っています。
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