プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

親しみ







 人工股関節友とまたミュージアムに訪れました。


わたしは出不精なので、(仕事でバスや電車に乗るのさえ避けたい)彼女が誘ってくれなければお目にかかることはできなかったです。


みちのくのほとけさま、かみさまが、木で掘られています。


そのひとりひとりの表情は、病院のコミュニティルームで

毎朝「おはよう」と声かけたあのおばちゃん、あのおじちゃんみたいねと、

クスクス笑い合いました。  


彫刻家とかいうブランドもんはおひとりもおられず、地元の大工さんやお坊さんの手で創られたものです。


キクイムシにやられてドットの穴が無数に空く、ほくろだらけのほとけさま、かみさまは素朴そのもので、そこには土地の方々の生活や祈りがありました。


祈りはひとの生活やこころが大我にあがった結晶です。


 来週は公演を迎え、わたしも上演するわけですが、わたしが知っているところの熱(欲)が落ち、すっからかん、なにもない状態が続き、これじゃあ、恐ろしい!ひとの前になど立てないわ!


とうんうんうなっておりましたが、今朝、ぐらぐらしていた乳歯が抜けたように、


なにもないって、スタート地点に立ったってことだとわかったんです。


なにもないがスタート。


今まで付けてきた定義という雁字搦めに嵌まるというのは依存なんだ、

それはあのひとのあの時代の裏付けされた実績からの安心を身に付けていくようなこと。


それが小氣味よく抽象的だったりパラドックス的だったり哲学的だったりしたときに、

難しめの自我がシェルターに入ったようなレーン内の藻掻きを約束してくれるような。


誰も守らない、レーンもない、後ろ盾も保護もない中で、なにもない感覚。

それは、そこにはまるまる全てある。


やっとここまで来ました。


乳歯が抜けたところはまだ歯茎は柔くデリケートです。


やわ こそ今。


 誘ってくれたマキちゃん、同い年、1日違いで手術して、同じ病院にいたね。

彼女は猫の焼き物を創っています。



ただふらあっと誘われたんですが、悶々から足抜けするきっかけを今回も頂きました。


みちのくのほとけさま、かみさまが、

それでええんよ

と線みたいな目で微笑んでくれているようでした。


あっ、これだけは伝えたい!


お姿ごとに紹介文がありますが、


✨恐い顔を作ろうとでかくしたも

かえって逆効果

とか、こんな撫で肩の毘沙門天は見たことないとか、


親しみが湧き出るきらくな言葉があちらこちらに溢れていて、

お姿の前に立つわたし達の、ミュージアムに来たんだという垣根をいっきに取っ払ってくれました。


やりすぎない、でも撫で肩の紹介文を作られた方、それを採用された方々にも感謝です。