プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

こころの垢


朝から堺光子さんの投稿を見ていた。


自己否定についての動画を見終わり。


💬


感じたことをコメントにしました。


😁😊😄😀☺️😅😆😄😀😃😊🤗


この赤を過ぎた歳になっても自己否定はある。

無意識のループです。


外的要因に転化して自己否定を見えないようにしたり、


自分の欠落部分を見なくていいようにしたり。


ときにそれは処世術。


死んではいけないし、

直球、病んでもよくないから、逃げもよし。


しかし解決には至らない。


エネルギー、器

が整いだしたら


氣づきがやってくる。


受け留められるようになったからかな。


観えるは、視える。



観えるは氣づきの次の変化に繋がる手前の現象。


また、エネルギーが整い、器が成長したら変化する。


死ぬまで未完。


肉體はパーフェクトでありながら、未完でできている。


また、だから生きられる。


パーフェクトでありながら、尻尾を追いかける犬のように


未完を創り、それに向かい毎日駆ける、または歩く。


留まって大丈夫ってわかりだしたときは、おさらばに近い。


いや、まだまだ時間を有しているうちにそれは理解できる。



ああ、お釈迦様はもう遥か遠くに説法されていた。


生は苦ではない

氣楽な過ごし方も学べる。


しばし離れて

今に招待されていること、

満喫する


それしかない。