玄関の花
菊は茎や葉が枯れ、かすみ草もドライになり、カーネーションも
もうお疲れ。
やっとお花を買いに行きました。
いつも、お仏壇と仏像さまにお供えするお花と、玄関のお花を一氣に生けかえます。
🌹🌹🌹
今日は仕事ではなかったのですが、玄関を開けると、自分が生けた薔薇が迎えてくれました。
朝買ったときより僅か数時間でお花が開いていて、にっこりしているようです。
「ばあらが咲いた ばあらが咲いた 真っ赤なばあらあがあ〜」
薔薇が咲いたの唄を柄にもなく口ずさんでいました。
「さあみしかった ぼおくのこころに ばあらが咲いた」
この唄を唄うなんて、自分で驚きました。
たいがい口ずさむのは
「あなたは〜すっかり〜疲れてしまい〜‥‥‥。」
あのけだるいジュリーの唄でしたから。
唄によって、作者のそのときのきもちを、時空を超えて共感することができる。
唄には再現力があるんですね。
まさに自分の今にぴったりで、改めてこの唄を真っすぐに受け取りました。
特に明るい、絵に書いたしあわせみたいな唄には拒絶反応があり、長い間、そんな唄は氣恥ずかしく、愉しむことが難しかったです。
年月が、シンプルなこころを閉じ込めた牢屋の鉄格子を溶かしたのかもしれません。
花はあるのとないのとでは、ワクワク感が全然違います。
花が元氣なとき
😄😄🤗😆😆😁😄😃😀☺️🤗
花が枯れてきたとき
😭😑🤨😔😒🙁☹️😕😧😟🤨😒
このしあわせ感の違いは551もびっくり❢
自分で生けた(花瓶に指しただけ)花に癒やされたのです。
部屋の中のものには影響力があります。
母の頃は、嫁入り修行にお茶お花が当たり前のように女性の嗜みでした。
女性だって外で働けるのに、もう初っ端から生き方を決めつけているようで嫌だな‥‥‥。
と、わたしは、若氣のいたりで内心ぶつくさ、声なく呟くのでした。
お茶やお花の重要性がわからなかったのですが、この歳になると花がある家、お茶をいただく間が家人の潤滑剤や安らぎになっていて、こころを支えてくれていたことを知りました。
なにげに母が庭で育て、生けていたお花。
点ててくれたお茶と季節のお菓子。
四季あるこの国を家族で愉しむ。
経済を担うのとおなじように、とても大切な、豊かなこころを育てることだったんですね。
外には見えない家人を支える働き。
自分の働きを見せびらかすでもなく、日々、夫や子や自分のために積み重ねる。
今は季節の花々を自分で生けますが、母が生きていたときは母が生けていました。
お母さん、ありがとうございます。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。