プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

川沿いに住まいする19歳の猫さんが虹を渡る

数日、亡くなった両親が夢に出てきたので、お墓参りに行った。


前回訪れたのは1月、もう2ヶ月も経っていて花は茶殻のようになっていた。


丸いビションフリーゼみたいな白い菊とピンクに白い縁取りのカーネーションを供えると、辺りはいっきに明るくなった。


その後、お待ちかねのわんこの散歩を川沿いで。

昨日とはうって変わってぬるい風の柔らかさと日向に、


ええ塩梅やなあ〜🐾


と髪をかきあげたのもつかの間。


いつもの橋の下の茶トラの猫さんがいるところに、ひとだかりがしている。


6人くらいで円陣を組み、何か話していた。


川沿いを一頻り歩き、帰り道、時々合うドレッドヘヤーが腰まであるお兄ちゃんに会ったので、


「最近、茶トラの猫さんいませんよね」


と聞くと、


「今日亡くなった」


と返ってきた。


🌿🌿🌿🐈✨🌫️🌳🌲🍃🌱🍀☘️🍂🍁🌼🥀🌷🌸🏵️💮🌅🌄🌧️⛈️🌨️🌥️🌈✨🌟💫🐟🐠


「でも、もう19歳だったから」


経緯を教えてくれたが、最後はそこに落ち着いてしまった。


長くなるので経緯は、はしょります。


川沿いの猫を見る度感じたのは、

わたしなんかより、遥かにヨガしているということ。


確かに、可愛がっている人間たちにご飯を代わる代わるもらってはいるけれど、


雨の日、嵐の夜、カンカン照りの容赦ない京の暑さ、雪、みぞれ、雷……。


猫さん達のねぐらは草の茂みや木の下だったり。


ときには人家の庭のすみっこだったり。


川の水を飲み、土や木や草の上で寝転んでいた。


かたやわたしは、スタジオの温度管理のある屋根付き施設のピカピカの床にマットを敷いて、ヨガなどと名目。


川沿いは猫さん達、鳥さん達のもの、8年くらい前までいたホームレスのおじさんのもの。


川の土のひと砂利ひと砂利が、猫や鳥やおじさんを形づくっている。


わたしなど、毎日散歩していても、借りもので、お写真に朝日が綺麗だとか花がうんちゃらとか納めていたり、言葉にしても骨の髄まで川沿いではない。


だから、ヨガをスポーツクラブでやった時点で、


お神楽を自宅や集会所の神棚の前で舞っているようなもので、


断崖絶壁や乾いた砂や泥濘む土を踏み裸足で風を受け、おひさまのいる青天にむき出しで海原に舞う、シャーマンではない。


寒かろうと思う反面、密かに猫さん達に嫉妬をした。


今も椅子にぬくぬくと座り、携帯電話に打ち込むわたしと、


今このときも、真っ暗な中の日々の険しさや暫しの安らぎを味わう猫さんや鳥。


わたしが腑抜け顔になる理由は、そんなところだろうと思う。


19歳の茶トラの猫さん師匠、ありがとうございました。


いついつまでも、しあわせでいてください。


🌈✨🌟🐈