外の波、内側の静寂
朝から鍵締まり騒ぎ、窓ガラス取り替え、鍵変え、鍵レスキューさんの出血
と尾を引く想定外のことが一段落。
また、実家からの荷物片付け作業に入りました。
長男の寝返りの頃から、幼少期までの写真をみつけました。
その頃わたしは29歳、バブル期にあり、眉毛を濃く太く描いて、艶々としたワンレンでした。
長男のあどけない笑顔や、カメラを向けるわたしを見る目があまりに無垢で、
わたしはわたしに
「こんな可愛い子を置いて踊りにのめり込んで……。」
実際には踊りに纏わる仲間や恋愛にも、のめり込んでいました。
自分の中の、自分を戒める自分がわたしに鞭を打つように何度か
「お前は馬鹿か!」
と罵ります。
写真一枚一枚、長男の笑顔を見ると、まだ両親が生きていた頃の自分や子どもの環境も鮮やかに蘇ります。
母はお茶をしていたので、庭には茶花を育てていて、時計草の写真も出てきました。
花が飾られた食卓は和やかで、若かったわたしはその有り難みがあまりわかっていなかったと思います。
それでも、べったり子どもといて、仕事して帰る。
そういった模範的な善良な母にはなれなかった。
若かりし頃、自信も自己容認にも乏しく、もっと踊り込んでリアリティと深みのある踊り手に近づきたいと切に願っていました。
新しい発見や改めて物事を観てみることに無我夢中でした。
そうこうしているうちに、あっと言う間に息子は小学生、中学生と育って行きました。
永遠は
失い続けること
であり、
過ぎ去った時間、命は返ってきません。
ただ一方方向に流れてゆく。
懺悔がこころの海に沈んでいるのですが。
それは流れて変化するもの。
一瞬一瞬、あっけらかんとすっからかん状態でいられるのはなぜか?
それは次男がお腹にいるときに出遭った、瞑想というものの体験の積み重ねです。
この習慣は、一次期、迎えないときもあり、やったりやらなかったりでしたが。
ここ3年は毎日欠かさず、目を閉じるようにしています。
何をしてきても、内側には絶対に汚れることのない、場所がある。
その場所と、起きているときも、寝ているときも、瞑想中も繋がる。
だから、今、極陰にも、極陽にも行かず、軽い状態でいられるのだと思う。
帰るところはこの自宅。
でも目には見えない本当のおうちは
✨ただいまあ〜✨
と目を閉じ、自分の内側にある場所に梯子を降ろして降りていく。
内側のオアシスに水を飲みにゆく。
外側の波が荒くとも、内側の波は小さく小さく、わたしを押し出して、素直であることを認めてくれる。
ありがとう。
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