プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

呼吸の出入りを観る


両鼻から息を吸う、

両鼻から息が出る


この吸う吐くの間に、息を留めている時間がある。


日常では、意識せずに呼吸が行われるので、留めている意識はないと思う。


それはまるで回転している輪のようで、上がる上がる上がる、


そして、

下がるの前に下がる方に行くまでの呼吸で言えば、吐いてもいないし吸ってもいない間がある。


観覧車でも、上がって上がって上がって、頂点になったとき、次に下がるまでの一瞬、下がる方に転換するための保持する間がある。


呼吸はうねりであり、決して上がり下がりだけではない。


このうねりは、両鼻から息を吸ったとき、両鼻からの呼吸が集結されるところに、一時とどまる。


そのときに、両鼻の集結部分に意識を集める、そしてまた、両鼻から呼吸が滑り降りていく。


ヨガのアーサナをしながら、鼻から息が出たり、また、鼻奥に息が入って行ったりするのを半眼でいながら、感覚の目で見ている。


そうしていくうちにおのずと変性意識に入り、やがて呼吸を観ていることさえわすれ、ただ呼吸そのものになる。


わたしは呼吸をしている


のではなく、


わたしは呼吸になっている。


わたし自身が呼吸になることも狙わず、変性意識に入ることも期待しない


それでも無邪氣に

呼吸そのものになり、精妙なレベルに潜っていくことができたとき、


そのときだけが静寂をもたらす。


そして、まさに静寂の中にいることなど、当の本人は氣付きもせずに存在だけになっている。


だから美しい。


でもだから美しいなどと、言葉のレッテルも貼れない有様。


あとになって、ああ、ほんとに静かで、呼吸も、からだもなくなって、ただ存在するだけになっていたことを知る。


だから呼吸はそこまでの入口にある、ツールになる。


肉體イコール自分でも、

知性イコール自分でも、

ない。


肉體は魂の乗り物であるのだけど、

乗り物がなくなっても魂はある。


わたしはあまりにわたしなので、わたしから分離することはできない。


生き死にの目的はただひとつ


靈性の進化と成長。