割れないお皿
毎日のご飯が待ち遠しい。
料理人でなくとも自宅で作れば、あれこれ味を加えるであろう、お決まりの薄味。
そういう繊細な料理が、大決戦をして再生中のからだやこころに寄り添ってくれる。
毎度看護師さんに聴かれる度、
「完食です。美味しかったあ〜」
そう告げるときのわたしは、
完食です
までは
何丸何号室の何番だけれど、
美味しかったあ〜
は、小学校低学年までの素直で食べること大好きなゆきちゃんの感嘆の言葉になっている。
今日は小芋が潰してあって、そこに塩昆布を混ぜ込むという、酒のアテにもなりそうなシンプルなおかずが新鮮だった。
院内の大家族の食器、もちろん割れないお皿。
そこには、南天の葉や梅の花なんかも描かれている。
子どもがまだ小さかった頃、母から葉っぱが描かれた割れないお皿を5枚セットでもらった。
「これ、割れへんしいい」
と母子で仕事に家事に育児にと、てんやわんや、やっぱり闘っていた頃だった。
子どもが皿を落として割ればわたしの手が増える、また睡眠不足で朦朧と洗いもんしようもんなら、皿のひとつも落とすだろうと想う母心だった。
わたしはまず、
ありがとう。
とは言ったけれど、
器が割れることを子どもに体験させることが大事だと、ねむの木学園の記事を読んで共感したばかりだったからだろう
ありがたいけどね、お皿は割れるからいい。
それを知るのも大事よ
買わなくてもよかったのに。
と言った。
記事の薄っぺらい丸受けだけではなく、年金暮らしの母にお金を使わせたくなかった。
今から思うと、もういない母のきもちを汲んであげられなかった言葉を悔やむ。
母には丸ごと伝え切りもせず、言葉足らずで傷付けたり、言い過ぎて困惑させたりしたと思う。
言葉、表現、ちょうどよしって、自分が満たされて引いた眼で、
今どんな状況の誰に話すのかをわかってないと自分劇になってしまう。
自分が言いたいことを吐露してしまうだけになってしまう。
でも、そんな緩みは母だから出せたのだろう。
もう、みんな子ども達は自立したのだけれど、そのわたし達母子の周りで、母が父が親しいひとや出遭ったひと達が見守り、応援してくれたからてんやわんや親子がここまで来れた。
今日もおいしゅうございました。
ごちそうさまでした。
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