プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

努力の裏側


わたしはもう、十年以上、

クラスの中で、努力しないでとか、努力は最小限でと言ってきました。


ダイエット、マッチョなカッコイイからだ 

イコール、努力の賜物、


と思い込んでいるひとにとっては

拍子抜けする言葉だと思います。


マインドが、どこかに集中しているときには、働いていない脳の分野がたくさんあります。


(脳のデフォルト モード ネットワーク)


しかし、どこか特定のところに意識を集める、

つまりは囚われているときには見えない、働かないところが、


フロー状態、囚われなく、氣もちよく、今ここの運動の全体を楽しんでいる、


子どものような状態でいるときには、

むしろ、脳エネルギーの70%以上を消費するほど、活性化するということがあります。


(こんなことを書いたら身も蓋もないかもしれませんが)


ですから、

運動やヨガの実践のとき、


現世ご利益を初めに伝えて取り組むということは、極力避けようと思います。


これはここに効くなどと始めに言われたら、

これからという神聖な新しい体験に対して


どっちらけ


ということと、

何も知らなければ、まるごとに近い脳やからだでその体験を感じ取ることができるのに、


効果効用という枠を与えられたことで、脳やからだが受け取る可能性の枠ができ、大半の大切な体験を搾取してしまうからです。


母が、まだ生きていた頃、わたしのプールのクラスに来たあと、口惜しそうに、


「あんた、もっとこれはここに効くとか言ったらいいのに」


と集客を心配してくれていたときがあります。


ですが、わたしには伝えるときには順序があると、いつも考えていました。


初めから、すべての答えをもらい、トライすることは納得が先にあり、安心ではあると思いますが、

答えをもらっている脳やからだには、思い込みという囚われができ、


まるごとを感じ、受け取り、考えるというダイナミックなプロセスを奪われてしまいます。


それは、各人の脳やからだへの信頼と、真逆の手出し行為だと思うからです。


ですから、体験ファースト、子どものようにそのものの、からだの伸びや働き、躍動やワクワク感やスリルを堪能してもらい、


かなりそれを積み上げてから、


実は氣がつかなかったかもわからないけれど、

こんなところ、働いていない?


ここはどう?


などと検証してみんなで確かめていくようにしています。


聖なるからだごとを、知識の押し売りにしたくはないのです。


言ってしまう方が楽です。


キャッチ、にもなりますね。


でも、からだごとはその真逆の澄み切った取り組みでありたい。


それは、わたしが踊り手であるがために、こだわる聖域なのかもしれません。


からだは、ご主人のしもべではなく、からだそのものが独立して尊いのです。


歩ける、歩けない、手が上がる上がらない、立てる、立てないの、分け隔てなく、そのまるごとのからだがそのまんま、尊いのです。