生まれた時刻
この歳になるまで、わたしは夜明けに生まれたと思っていました。
昨夜、わたしが生まれたのは夜であり、明け方ではないことがわかりました。
連日連夜、片付けに奮闘しています。
片付けるって、ただ要る、要らないではないのです。
物に纏わる想いをほんとうに消化して、昇華したものは手放せますし、無理やり引っ剥がすことはできないのです。
もう、娘の引き出しは戻りませんが、彼女が置いていたCDや本などは置いておきます。
いくら場所がないとはゆえ、勝手に個人のものを処分できません。
断捨離っていう言葉がよく使われますが、
見事に物がなくなることが、精神的に成長した大人であるとは思わない。
熟慮した上で小さなスペースに納める工夫をしたり、
くだらないものはほんとうに処分したりの繰り返しです。
その片付けと向き合ったおかげで、母の育児日記が出てきました。
えんぴつで、わたしが生まれるときの様子が記されていました。
自分の字を汚いと氣にしていた母の、精いっぱいの思いが綴られた文字。
陣痛、痛みの間隔、出産、初産だったので、母はわたしを生み落とすまで16時間半も掛かっていました。
父が医師に連絡したことなども書かれていました。
大変な辛労で赤子のわたしが生まれたときに、全身の力が抜けたと記していました。
それから5日間はよくわたしにも話していた、産褥熱で魘されたようです。
今まで占星術師さんに、
「何時に生まれましたか?」
と聞かれても、
「さあ、母は夜明けとか言っていました」
としか言えなかったのですが、
昨日、初めて真実を知り、号泣しました。
「おかあさん、おとうさん、
ごめんなさい」
今、また静かに片付けは進んでいます。
黙々と手を動かすことは
瞑想以上に瞑想かもしれません。
目の前の痛みも想いもまざまざと観る時間。
今日は、箱庭の先生がまだまだたくさんの山を乗り越えますよ。
と言われたのですが、もういいわ。
そのひとつが命がけ。
とりあえずひとつずつ。
山頂に清々しい朝日が射し込むことを信じて歩みます。
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