からだにかける言葉 第2段
✨ストレッチ編 第2段✨
例えば体側を伸ばしたり、前屈するとき、
どんなふうに感じているか。
うわあ、からだ伸びてきもちいいわあ〜
あるいは、イ タ イ、
ク ツ ウ ……。
主観として、からだを伸ばしている〜
と感じているひとと、
からだを曲げている
と感じるひとがいる。
昔、
「からだ、曲がらないんです」
という方がおられ、わたしは内心仰け反った。
(ずうっと、からだ曲げてきた の?)
とわたしの感覚との
あまりのズレにしばらくガックリ(´・ω・`)
立ち上がりに時間が掛かった。
先日もおなじことがあった。
「ここまでしか、曲がらないん です」
と言われたからだ。
確かに体側を伸ばすときは
反面は屈曲しているし、
わたし達は屈曲することで伸ばしているのだけど、
そこに主観として、
伸びてるう〜
とか、長あくなっている
感覚がなかったのか?
と、やはりその方との感覚の距離感を感じてしまった。
ストレッチしているとき、どう感じていようと、正解も不正解もない。
現時点で、そのひとはそう感じていたんだ。
ひとがそう感じるにはドラマがあり、
理由があって、そう感じていることで、わたしがガックリすることではない。
長年おなじ時間を共有していても、だからおなじだということはない。
20代の頃、ガックリしてしまったり、仰け反ったわたしは
それだけ、未熟だったということ。
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からだが感じる言葉はほんとうに重要で、
たとえその方が言われるようにあまり曲がっていなかったとしても、
伸びてる〜
からだが欠伸しているわあ〜
という感覚が無ければ、からだは緩まないし、喜ばないから、柔らかくならない。
むしろ、からだを伸ばすとき、 深く側屈したり、
深く前屈したりするより、
(危険でもある)
縦軸(身体の軸が向いている方向)
へ伸びているかが、まず先決。
右手を頭上に挙げて体側を伸ばしたとしたら、
どれだけ左に傾くかの前に、
木のように右手が上に上に伸びていく感じ。
そうすると体重が左に動いていくことに氣付く。
その次に自ずとそのひとの無理のない左への傾きが来て、
右脇が伸びる。
なので、足で床を押し伸びるのだけど、
たまたま右手をあげているから、左に撓ってしまったみたいな。
ストレッチングはパフォーマンスではない。
ひとに見せるものでも、
柔らかいとわかってもらおうとするものでもない。
歳がいくつになっても、発見と氣付きの連続。
からだと向かい合うことの中に、生活とおなじように、
氣付きのチャンスがたくさんある。
生活をしているときは、
なにかをしているのだけど、
結果にだけフォーカスするのではなく、
プロセスを楽しんでいるとき、
驚き、感動がやってくる。
コンロ汚れを落とし切る結果に囚われず、
水を付けたり、擦ったり、
そのひとつひとつを愉しむとき、
作業療法になる。
作業療法の積み重ねが作務になり、
こころが洗われる。
ましてや、ストレッチすれば目的地に到達するわけでもない。
まさに瞑想。
ストレッチも運動も動的な瞑想。
だから、極めてプライベートな時間。
グループワーク、
みんなでおなじことに取り組む時間であっても、
みんなで仲良くなんて氣を遣わず、
とことん自分のからだを
愛してほしい。
それはとことん、自分を愛すること。
そのとき、期待をせずとも、
からだが一番喜び、
魂が喜び、
最も質のよい刺激を
その一瞬一瞬に届けている。
あなたはあなた
わたしはわたし
とことん自分を愛していくとき、
自ずと微笑みが湧き出て、
周りのひとに愛を感じるようになる。
まずは
比較などせず、
自分をちゃんと観てあげてください。
たかがストレッチ、
されどストレッチ
すべてに通じること。
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