プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

泳げないのに


今、思い出してもぞぞっとすることがある。


わたしは高校一年の時、川にキャンプに行った。


川の向こう岸まで泳いで行く友だち達に取り残され、川の流れが早いので、たぶん向こう岸までは泳げないとわかりながら、向こう水に泳ぎ出したことがある。


川岸は見えてはいるが、なんせ遊泳禁止の川、渡れる氣がしなかった。


案の定、流れが早く、浮いては沈み浮いては沈み、渦近くまで流されかけた。


水を飲んでは上がり息をする。

無我夢中とはこのことだった。


一緒に行ったボーイフレンドは、向こうで友だちとふざけ笑っている。


もうダメか?!

と思ったとき、クラスで一番目立たないガタイのしっかりした男子が、飛び込んで助けてくれた。


何でも消防団にいたことがあり、溺れているとわかったそうな。


泳ぎ切れないとわかっていてなぜわたしは泳ぎ出したのか?

3%の確率くらいで、泳ぎ着くかもわからないというのもあったが。


わたしだけ、

泳げないよ!


とは言い出せなかった。


ようは自分の足手まといな部分を出せなかったということ。


嫌われなくない、みっともない自分を見せたくない。


今なら

無理!

こんな激流、女子に無理に決まってるよ


とはっきり断われるのだけど。


恥かきたくないというただそれだけの理由で、わたしは命を落としかけた。


命の重みがほんとうに希薄で、自分を大事にするきもちが恥より低かった。


ひとつは、親の期待に添えない親不孝もんで、両親を悲しませてきたわたしは、自己肯定感も、自分の存在を容認することも、ボロズタだった。


でも、溺れてみると文字通り命懸け、必死で息をしようと最後までもがいた。


助けてくれた彼の名前を知らない。

でも、体格や顔は薄っすら覚えている。


命の恩人のひとの名前も知らない、あるいは忘れたなんて、

わたしはその頃、人間ではなかったのだろうか。

🌊🌊🌊🌊🌊


先程、娘が大事な郵便物を取りに家に上がってきた。


一週間ぶりか。


「おかえり」

と話しても相変わらず返事はなく、机の上の郵便物を取り、即座に出ていった。


犬がしっぽを振り、クンクン鼻で甘え鳴きをしても知らんぷり。


もし、わたしが彼女の立場なら、

ここで犬を撫でようもんなら、泣き崩れる、決死の意地も怒りも壊れてしまう。


彼女は犬も猫も鳥も馬も動物が大好きな優しい娘。


だから、口を真一文字に閉ざし犬を無視していたのだと思う。


わたしに反発を感じても、犬にはなんの罪もなく、彼女が怒る理由がないのだから。


こんな様子を今年、ある教育関係の方に話したことがある。


別に相談ではなく、知り合いだったから。


「親に何かある」


そう言われた。


当たり前だ。

何もなく反発などない。


しかし親も完璧なスーパーマンではない。

弱く自分勝手で、理不尽なところはたくさんあるだろう。


それだけなんだろうか。


教育関係の方はわたしの何を責めるのか?


何も知らないくせに。


そう感じたが、


「そうですね」


とだけ答え、話を変えた。


もう、氣を許して話などしてはいけない。


日々ワクワク目の前のわたしの課題や仕事に打ち込み、沈まぬように笑顔を忘れずに生きているのに。


正論を翳すひとは、血も汗も涙も流さない。


教育関係者、全ての方がそうではないのだけど、知識と今ここのそのもの、比重が知識に寄り過ぎた言葉は何も響かない。


更に傷つく。


娘は川に溺れたときのわたしのように、自分を大事にしていないのではないか?


そう感じた。


ほんとうの自分を大切にしているのか?


何をどうしても、愛している娘のことを想わぬ日はない。


明日は、クラスを代講していただき、東京へ。


代わってくださった先生、

ありがとう。


さあ、明日のために

おやすみなさい(。-ω-)zzz. . .