プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

もやもやが教えてくれること1(いつだって踊っている)


昨日ある方から、

「一年半のブランクだったのね」


と言われて、もや〜😑

と感じました。


先日のギャラリーでのソロは確かにひと様の前で肉体体現として出現するのは一年半ぶりでしたが、

わたしは毎日毎瞬体現しています。


誰にも見られないところで、いつ起き、何時ごろ寝返りを打ち果物をほうばり、欠伸をして言葉に向かい、また、床に転がる。


そのひとつひとつはわたしの選択であり、それは踊ること。


ひと様の前に出るところだけが、起動中、それ以外は休業中ではない。

 

🌸 🌳 🍂 


桜の木は冬、英氣を溜め込み充電して、じっとしているように見え、実は内的には動の真っ只中。


春の花咲く桜にみな、ちやほやするけれど、

わたしはじっと奥歯を噛んで待っているような、冬の桜の木に惹かれます。


演歌?


いや、木は情緒とかいう曖昧なものとかけ離れた在り方で、時を営んでいる。


だから、冬のしっかりした木を見ると、花咲く儚い桜が視えてくる。


わたしにはブランクは一度たりともありません。

1年半ぶりにひと様の前に立ちましたが、ブランクではありません。


わたしにはブランクという言葉が、離れていたという響きに取れるのです。



からだのお仕事を離れていたときも、乳児たちに乳を含ませながら

からだの学びを深めた。


目に視えることだけが全てではありません。


踊り手なら、絵かきなら、料理人なら、写真家なら、音楽家なら、書道家なら、競技者なら、教師なら、‥‥‥。


24時間、全日その感性は、トイレの中まで開いているはず。


だから、ブランクという言葉を受け入れたくなかった。


なにも言わなかったけれど、

わたしの中には地雷があり、泉があり、火があり、水があり、土があり、木があり、刃物もある。


それは内部で格闘したり、愛を溢れさせたりするのだけど、


言葉は偉大な起爆剤になっている。