思慮深さ
10歳までの子どもには思慮深さはありません。
でも、木を描くときに、葉っぱのひとつひとつを描いていく子はいます。
例えば、週に何回も、あるいは毎日同じ運動をするとしても、
ただの反復になっているひともいますし、
そのときどきの
今、なにが自分に起こっているのかを観ているひとがいます。
また、両方がまだらに入り混じる時間になっているひともいます。
ずっと内観しながら動くひとはいないからたぶん比率は様々でも、入り混じるのだと思います。
わたし達は飽きるということがあります。
そこで、飽きたら次違うの、次に違うの
と飽きさせないように、斬新なエクササイズが出てきたり、遊びやゲームなどが外側の世界には出てきます。
それはマーケティングであったり、やむにやまれぬ理由ある変化であったりします。
運動でいうと、あれもこれも
手を変え品を変え、楽しいエクササイズは出てきます。
そのことでいうと、ひとつのことに飽き、次に次に行ってもよいのですが、
自分に引き込み、自分のからだや精神を理解するところまで、落とし込めるかどうかが
そのひとを変化させるか、やっていることは変わっても、ひと自体はあまり成長していないかが別れるところだと思います。
そうなると、何年も同じことを悩んでいたりということが起きたりします。
でも、玩具が変わったから夢中でいられる間はほんとうのその人の課題に潜り込むことをしなくていい、逃げること、時間稼ぎができるから変わらないのです。
変化、脱皮には期が熟すことも必要です。
果物は熟してからきっぱりと地面に落ちてしまいます。
桜も散るときは、そよ風で散り、嵐でも期が熟さないと散らない。
ですから、変化には期もあります。
戻りますが、小手先をあれこれ外側を変えても、自分の内側は変わっていないということがあります。
ひとつのことでなく、いろんな体験をして、自分に潜り込ませて観る、繋げることで、理解に結びつくことはたくさんあります。
また、逆に同じ運動、例えば水泳を30年やり続けたとして、そのひとには成長がなく、コリ固まるかというとそれも違う。
同じことを繰り返すから観えてくることがあります。
昨日は要らない力が抜け、集中できたのに、今日はなんかうまくからたが統合できず、力みがあったり。
毎回違うことを観る力を培うことができます。
🍀🍀🍀🍀🍀
白詰草が咲いていたとして、先週からずっと咲いていたとします。
この調子なら来週も咲いている。
ここ一月ずうっと咲いていると一括にしてしまうこともできますが、
もう少しよく見てみると、
昨日咲いた白詰草は枯れていて、隣の白詰草が咲いているのかもしれない。
そうやって白詰草は日毎咲いていく花が変わっているのかも知れないのです。
ですから、白詰草を毎日観るように、ひとつのことをやり続けると、ものごとを丁寧に観るようになります。
飽きるということが、どんどん探求へと変化させるのです。
そういう意味では飽きたら目先が変わります。
大雑把に見えていた
白詰草また咲いてるよ
から、今日はこの白詰草が咲いてきた、この白詰草は縮んできたな
に変わっていきます。
飽きるということは素晴らしいことだと思います。
飽きたから、その先にあるもっともっとよりよく関わりたいという要求が出てくるのだと思います。
人間が、ひとつのところに留まらず、変化することに恩恵を感じます。
思慮深さは、80歳になっても90歳になっても培うことができると思います。
🍀🍀🍀🍀🍀
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