プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

野花

桜の時期、川沿いの桜の木が一本、割り箸位の長さで折れ、道に落ちていた。


その桜を大事に持ち帰り、花好きな母がいる仏壇に供えた。


桜は一週間ほど一つずつ花が開いていき、仏壇を華やかにしてくれていた。


先日、川沿いを早朝歩いていると菜の花が折れていたので、これも持ち帰り玄関に飾った。


玄関が元氣いっぱいになり、

今はその菜の花の花びらの掃除を毎日している。


わんぱくな菜の花は、花が散っても元氣そうなので、これからも玄関にいるだろう。



花好きな母を喜ばせたくて、小さいときタンポポを摘んで自宅に持ち帰り、コップに挿したことがある。


ところが、もといたところで仲間達と咲いていたときの笑顔がタンポポから消えてしまった。


色の鮮やかさが失せ、なんだかほんとうに寂しそうに見えた。


それから、タンポポを摘むのをやめた。


川沿いに咲くピンクの白詰草を、胸に痛みを覚えたけれど数本手折り、生前の母に届けたことがある。


「ああ、これ、白詰草か」


と言って母が小さな花瓶に挿すと、白詰草は小さなガーデンカフェのような風を食卓に運んで来た。


✨✨✨

白詰草の花かんむりが無造作にベンチに置かれているときがある。


頭を飾り、遊び終わって置き去りにされた白詰草の冠が枯れかけているのを見ると、胸が痛む。


あれだけたくさんの花を手折り花輪にしたのなら、せめて持ち帰り一本一本を水を入れたコップか花瓶に挿してあげられないのか。


もう萎れて手遅れなのかもしれないが、涙が出そうになる。


もう母はいないし、野草を手折り見せてあげることもない。


花は花屋で枯れる手前で安くなっている花を買って帰る。


その花が、想像を超えるほど幾日も生き生き咲いてくれていると、可愛らしくて、その花が終わってもなかなか捨てる氣になれず、煮物にしたの?


というくらいになるまで変わらなければ、捨てられない。


もう無理と諦めてゴミ箱に入れるときには、


「今までありがとう、きれいだね」


と言ってさようならする。


きれいだったね

とは言わない。


茶色に変わってしまって、鮮やかでなくても、美しいから。


きれいだったね

は花に対して失礼過ぎる。


写真は道で出遭ったラベンダー、

アブが花に集まっていた。


香りを楽しませてもらいました。


明日はまたどんな花と出遭うのだろう。