プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

水場

これは昭和の

京都国際写真祭の写真です。


今はこんな、時代を感じるひと以外は変わらないですね。


昨日わたしが撮った素人写真です。


京阪電車の終着、始発駅近くのここは見晴らしがよく、朝日がつ〜んと差し込みます。


よく日焼けも氣にもせず、朝日を浴びながら瞑想するひと、

ひたすら朝日を目に焼き付けるひと、ぼうっと座るひと、散歩するひと


などがいる場所です。


うちのわんこもここは好きでよく行こうとします。


近くにヌートリアの巣もあり、わんこさんを引きつけるスポットです。


たぶんここに写る少年は今はかなりの年齢か、もうおられないかだと思います。


今はわたし達が散歩に訪れますが、


この先幾年かすれば、わたし達ももういません。


この写真の場所に令和の次の年号、またその次の年号のひとが立ち、わたし達と同じように朝日を浴びるのかもしれません。


ですが、この先ずうっとこの水場が保存されようとしても、いつかはこの水場さえなくなります。


わたしは母の父、つまりお祖父ちゃんの名前は覚えていますが、

お祖父ちゃんのお父さんの名前は知りません。


その先のひいお祖父ちゃんのお父さんのことなど、想像もつきません。


が、その方々から受け継いで繋がり

今のわたしが形成されています。


そう思うとわたしの何十年かの人生は

砂に書いたお手紙のように跡形もなく、確実になくなります。


石碑も銅像も、書物もなくなるように。



地球も生まれた限りは終わりが来るので

木っ端微塵に何もなくなるでしょう。


が、それでも日々なくなるもののために力を発揮しています。


肉体を頂いたときに未完成が始まり、完成させようと日々生きるのですが、


実は完全性から生まれまた、完全性に還っていきます。


未完成を完全にしようとする営みは肉体がなくなるまで永遠に続きます。


一瞬たりとも完全はありませんし、また一瞬は常に完全です。



肉体がある間のこの終わらぬ琢磨が、目には見えず測ることもできない魂の成長に繋がります。


そう鑑みるとみんな菩薩業を愉しんでいるのでしょう。


安心してまた完全性に溶け込めますように。