プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

抜け殻

子ども達が保育園にいっていたころ、千本釈迦堂で蝉の抜け殻をわんさかみつけた。


名残りおしく、みんな靴箱に入れていったら

30をゆうに超え、すごいことになってきたから一旦抜け殻収集はストップした。


蝉の抜け殻といえば、

今から30年ほど前に

縄文太鼓の土取さんと、山口小夜子さんの舞?

を体験しにいったとき、


山口小夜子さんの妖氣より驚いたのは、


小夜子さんの内側に、熱さのようなものをなんにも感じないということだった。


踊り手や演劇人からはパッションやエネルギーが伝わるのだけど、


見事に血潮のようなものを感じなかった。


蝉の抜け殻だと思った。


モデルさんは踊り手や舞台人とは異質の立ち方をするのだ。


なんか自分の分厚さを持て余し、


意味不明な不全感で帰路についた。


内側を感じさせない立ち方。


見事に肩透かしだったのだけど、

それが山口小夜子さんというモデルの存在感なのだ。


蝉の抜け殻は美しい。


きちんと脱ぐ前の蝉の生き様がコルセットのように型どられている。


ギブスを脱皮して、


鳴いて鳴いて鳴いて鳴いて


短い生を満喫する。


「蝉って可哀想、あんなに長いこと土の中で待機して、やっと飛びたつと呆氣なく終る……。」


とある方に話したら


「蝉が羨ましいひともいるよ」

と笑われた。


そうだな。


短命、可哀想なんてイコールという人間は


まだまだ、あまちゃんで恵まれているんだろう。


短命、ほっとする。


そういう持て余し方。


歳を食って、自分の中にその両方がある。