プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

モチベーションは当てにならない カフェインのようなもの


かつて、20代後半から30代前半と、踊りの世界にどっぷりいた。


わたしの動きや持ち味を見て、ソロデビューできるまでに体験を積ませてもらった経験がある。


その体験の中で、いろんなチャンスをもらい、更に成長していけたのもその時。


しかし、もう随分前からひとりで踊りに向かっている。


もう、場の提供もないので、年に1回、ひどいときは、2年に1回の舞台を踏んでいます。


来る日も来る日も稽古をしたのは、

見ていてくれるひとがいたからです。


それからはひとりその集まりを抜け、

子育てにてんやわんや


ライスワークと子育てに全力を注ぐようになりましたが、


まだ、踊り手としてのモチベーションがありました。


子どもがいるから踊らないとか、

生活維持の義務が背中に乗っているから、


踊らなくなるのは、生活に負けたようで、


それとこれとは別、

とやはりなんとか踊っていました。


ところが、もう育ててくださった方の存在が遠のくと、



「わたし、なんでこんなしんどいことやってるんだろう?」と

思ったことも何度もあります。



踊りがしんどくなっちゃっているんですね。


小さいときは振り付けをもらい、言われた通りちいぱっぱですから、

生みの苦しみはありません。


お稽古ごとではないから、まず動きそのもの、静止を含めて

まず生み出すことからですから、


苦しいのは当たり前ですね。



そして、モチベーションの喪失です。


頑張っていないと許されないような強迫観念、


ほんとうはどっぷり子どもといたいきもちをかなぐり捨てて、こころを鬼にして公演をやってきました。


子育ても今は終わり、


何をモチベーションにして踊るのか?


もう、誰かの期待に沿うために一心に踊るでもなく、


日本で踊り続けることは

ほんとうに難しいから、

余計に手放さない。


手放すことは、

[昭和枯れすすき]

ではないけれど、世間に負けたこと、生活に負けたことになってしまうし、

踊り手としてのわたしを見捨てるようでいたたまれずに

続けてきた。


もうそんな強氣もなくなって

余計な力が落ちたとき、


ようやく、

踊る踊らない

という有無を含めて


自分の踊りと対峙している。

 

母を喜ばせたくて一生懸命に踊ったし

無邪氣に踊ることは大好きだった幼少期。



期待してくれるひとに応えたくて、無我夢中で踊る女性の時期。


子どもを背負ってもわたしのドラマは終わらないから

踊っていた時期。


正のモチベーションであれ、負のモチベーションであれ、


それは原動力であったが、


そのモチベーションが薄らいだ。


踊りという手段を取り

ひと前に立たなくとも、日々の生活のあれこれを、丁寧にやり遂げることに

大事な意義を感じる。


人知れず丁寧にやかんを磨いたり、玄関の土を履く


そんな、ひとつひとつをやっていきたい。


モチベーションから動くのではなく、

感謝する力、本質からの源泉から自ずと小さなことを大切に感じてやっていく。


人前に立たずとも、いつもの生活のひとつひとつが

今まで愛せなかった自分の置き去りにした部分を抱きしめることのようで。



自分の、真ん中が涙を流して

祝いでくれているのを感じる。



モチベーションはまるで電池一本分の継続しない原動力で



またあれやこれや電池は切れずに来たとしても


永続性のない電池。


喜んで貰えるとやる氣が出たり


評価されないとやる氣が失せたり


まるで、カフェインみたいに永続性がない。


外側の条件の有無で、自分のパワーが湧き出たり

全く動けなくなったり。



汚れているなと、何となくスポンジを握って掃除しだすときには、

永遠の原動力は

感謝なのだと本質が打ち明けてくれる。


モチベーションというものは当てにならない。


大好きな踊りを、考えることだらけでぺしゃんこにしないで、

また無邪氣に踊りたい。


そのときは公演料など取らず、

犬と一緒にただただ踊りたい。


自由になりたい。