プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

おんにゃなんて嘘っぱちだよん





 このお写真は加工はしておりませんが、隠しようもない首の皺は見えぬところまで切りました。


呼吸法仲間、いや先輩にあたる真理さんが耳ツボをしてくれはりました。


昔、貼る鍼のシールが流行った20代のころ、モニターで貼ってもらったことがありました。


それはリフトアップが売りでしたが、

今回は不調を改善したいと、あちこち音叉でリーディングしていただき、初めての体験です。


とびきり反応したのは神門のツボ。


悪い頭を酷使したのか、前頭前野のツボ。


3箇所鍼の付いたシールを貼っていただきました。


見えないかな?


帰りに米粉のドーナツを頂き、

チョコが、解けないように念じながら帰宅。



くまさんの可愛いお顔は健在でした。


真理さんのサロンが開店し、今日はイベントです。

なんかネイルやらアロマやら、されています。


もう、いいかあ

お手先まで美しく整えるってこと、わたしには無縁で、そんな時間があれば、やることいっぱいあるやんとキッパリしていましたが、自分を磨く時間って大事なのかもしれないなとふと思いました。


真理さん

ありがとう(⁠ ⁠ꈍ⁠ᴗ⁠ꈍ⁠)

喘息と発熱


 このようなもので命繋いでおりました。

これは自転車で、仕事の前にわんこの散歩に来てくれていた孝行息子に頼んで買って来てもらったものです。


 これとバナナで生きておりました。

現在は平熱とまではいかないけれども37℃台。


受診しましたがコロナではありませんでした。

また来週の月曜に再診で検査です。


丸一週間全ての仕事をキャンセルしました。



わたしは喘息を持っているので、毎夜横になると押し寄せる咳の嵐。

もう肺が壊れてしまうんじゃないかという思いに捕まらないように、するりと平然と咳をしています。


日曜の仕事帰りのバスの中、咳がほっほっほっほっと出始めました。

本当は何度か仕事中も、あっ、今出るという瞬間があったんですが、そこは意識でなんとか封じ込め、帰路というのはまだ公衆の面前であれどもクラス指導という立場からは解放されてひとりの人間でいられるので、堰き止めていたものが反乱し始めます。


出たかったんですよ、不具合ですわご主人、大概にしてよね!

と喘息が一揆に発展したかと思うとあれよこれよと、夜中は背中が焼けて、頭皮は左頭頂、右側頭、の激痛、右首裏にはズキンズキンと電氣が走り🟥🐺🐺🐺

まあ、疲れ切っているのに一睡たりともできませんでした。


 それでもわんこの散歩は待ってはくれません。

朝フラフラで電信柱まで犬に引かれて行ったかと思うともう呼吸困難。


息が吸えない、吐けない。

わたしは呼吸法もお伝えしているのですが、呼吸法を行える人ってほぼほぼ健全者なんですよね。


喘息発作の時にはそれは適応外となります。


で、発作のない昼間などに478呼吸などをまたやってみるのですが、息が吸えない吐けないや喘息を経験したひとって、息どめがほんとにきついんですよね。

咽せが訪れるという予感や不安もさることながら、まず傷だらけの肺や器官にマッサージオイルを優しいく染み込ませお手当するようなことから始めないといけないのは明らかなので。


 で、一旦、何が呼吸法や!そんなん自信満々に伝えられるひとって、完全無欠のヒーローみたいなひとだけやわ、だからもう体力付いて行かないこのバレトンも潮時かいなとまで思ってしまう内声はあるのです。


 その後上がって来る成熟した人格もおります。

股関節人工にしたよね、

骨粗鬆で治療しているよね

両膝軟化症だよね

この間また膝強打して腫れて曲がらなくなったよね

逆流性胃腸炎だよね

で今喘息で苦しいんだよね


だから伝えられるんだよね


と言い切ります。



今、喘息で苦しいから、からだや心のケアのために呼吸法を取りに来るひとの立場に立って、想像よりもっと親近感のある体験からお話もできるし、ああしたらこうしたらと一緒に取り組める、バレトンも姿勢や体幹を養うものですが、これはできないこれは加減がいるというひとに対して、無理しないでね、だけで運んでいくだけでなくもっと明解な伝え方やアプローチもできる。


 何より生活を見直す以外にはないのです。


クラス中の時間ってある意味特別な時間、そこでの収穫を正活に滑り込ませ、染み込ませることです。


ああ、こんなことしてたなとか、自分蔑ろだったなとか、思い当たることは目白押しです。


身を持って全身で受け取る氣付き。


という結論からすると、わたしは自分が求めていたものをどんどん受け取っています。




で、痛いとこ経験しなくてもさわやかに質深きところに行けるのですよ。


わかったんです。


股関節の発端は先天性ですが痛みに耐え結局は人工になったこと、軟骨軟化、喘息は整形外科系から出たアスピリン系の薬が引き金になっているし、それもそこまで我慢せずにあっさり休めばよかったのですし、逆流性胃腸炎も、ようはストレス、ゆっくり食べることを楽しむより、今取らなきゃと時間との闘いをやってきた後遺症みたいなもの。


全部エゴです。


痛かったら早々に休んで知らんぷりしていたらよかったのです。


やっぱりからだで体現していくお仕事がどうしても好きなんです。

好きというのもエゴです。

からだをそんなふうに投げ出さなくても大事にすればいいのですが、からだに入っている時の精神のし〰んとした時間が尊く、自分を取り戻すのです。

垢のないからだに、どっぷり梯子段をおろしていくような。

降りることはいっきにわたしを救いあげてくれるようなことになっているなと、後で言葉にすればそう言えるかもしれません。


心臓がバクバクしたり、呼吸が上がって行ったりなんだかうれしくて弾んでいるようなことが、自分を当たり前の状態に立たせてくれて安心するのです。


だからやすめなくて手放せなかったのもエゴですね。



根が真面目


真面目って真っ直ぐで一途な性分だとも言えるのですが、それを開いた時に、まさに切実にそれしかないという様と、いや、いろんなことを器用に渡り切る能力が欠けている場合、神さまがそれを補う、一途真っ直ぐという特質をくださったということもあり。

それが違う道を選ぶことができない頑固さに発展していくということにもなっていきます。


唐突ですが父は生真面目、クソ真面目でした。

おっちょこちょいで調子者で、すぐ酒に溺れる裏側に、真面目さをうまく時に応じて手放すことが難しかった不器用さがありました。


その姿をみて育ち、そのDNAを受け継いだわたしが、個人という優雅さの裏にある鎖からどんどんカルマを手放して成長、成熟していく過程です。


兎にも角にも今はからだをやすめて、また9月から向かう大事なことに意識を合わせて行きます。



 周りにはいろんな菌があります。

疲れているのは年齢に関係なく高齢者や乳幼児や持病のある方と同じです。

また、安易に菌を運ぶことがないように、免疫力が落ちていれば菌が入ったひとは致命的になります。


まだまだ油断のならない暑さや湿度。


過信せずにからだ労わってお過ごしください。

盆は



 盆はきつい。

母が亡くなり早12年を過ぎ、父が亡くなり9年が過ぎた。


優しい優しい、ひとの心がわかる柴犬のゆきちゃんが、17歳になる手前でお星さまになり、もう、7年を数える。


玄関には黒い蜻蛉蝶やらバッタが跳ねて、先祖さんが来てくれはったんやと、わたしは挨拶に始まり、短い話をする。


虫たちを完全にご先祖だと思っている。


蜻蛉蝶は母で、バッタはゆきちゃん

この、網戸のぶっとい蝉はよく抱っこしてくれた祖父だと勝手に決めつけて、盆のひとときを小さいときのようになぜか安心して暮らしている。


虫たちはからだが虫だから、やはり心悲しいながらも、亡くなったひとや家族がいる懐かしさでわくわくした。


毎年、8月15日くらいになると、わたしはすぐ泣きそうになる。


明日16日にはみんなまた橋を渡ってしまうから。


ほんとに些細なことで泣きそうになり、いつもダム水面すれすれに水が張っているようだ。


やはり16日はやって来て、火の儀式が始まる。


山に大が、妙、法が、船形が、大が、鳥居が次々に点火されるともう駄目だ!


帰ってしまう。


グリーフケアの書物には、日が経つと悲嘆は経過していくとあったけど、やっぱりきつい。


胸がぎゅっと締まり息がしにくい。


年月が経過しても薄れない残念さや、甘え足りなかった子供の心、あのとき、このとき‥。


17日、夜が明けお日さまが登ると、わたしには役目がある。


耳の大きな尻尾さんの散歩に行くこと。

朝ご飯も食べるし。


神棚には祝詞、お仏壇の線香、お茶にお経。


そんないち日が始まり、憂いを少しずつ動かしてくれる。


亡くなる前の母は子供に戻ったように

父のことを、


「足が痛いゆうてんのに‥‥せえゆわはんのや」

と天国の婆ちゃんか爺ちゃんに告げ口していた。


そういえば、小さい時から母は父のことを毎日毎日わたしに告げ口していたな。


だから、父が嫌だった。

おかあさんを困らせるひとだとずっと思っていた。

おかあさんを守らなくてはならない。



今思えば、わたしは母の心のヤングケアラーだったのかな。


何やそれ!

そんな大袈裟な

と母を悲しませるかな?


今だから親とのことが更に更に視えてくる。


自分の不自由なきもちや、親とはいえ、親も人間だということも。


そして、畳の部屋で幼いわたしを寝かしつけようと、団扇で仰いでくれていた父のことも、みんな覚えている。