プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

どんぐりくん

朝、我が家のラブラブのわんこさんとの散歩で見つけたどんぐりくん。


右はひとりっ子

左に行くとふたりっ子


へちゃけています。


そのひだりは三人っ子


もうへちゃけてるとか通り越して、よく生きてこれたね


というくらいの痩せた三人。


長男がまだ1歳に満たないときに自宅近くの坂道に落ちている栗を見つけ、

そのいがの中がひとりっ子だと福福で、ふたりっ子だとやっぱり艶々の福福、三人っ子は更に処狭しだけど福福艶々だったのを見て


長男に言ったのです。


それはひとりっ子は自我が強い

三人っ子は協調性があるとかそんな単純な話ではなく



栗さん、美味しいねって兄弟で食べたら

こんなにしあわせそうね。


ふたりで食べたら


美味しいねって分け合えるね。

こんなにしあわせそうに艶々だね。


三人で食べたら

もう、にっこにこだね


と、話したことを覚えています。


それを、話したのは母親風吹かす教訓を教えるみたいなこととは違い


ただ自分が氣付いていなかった今ここで感じたことを息子に話したまでのこと。


ひとりっ子が自我が強いとか、三人っ子がおのず我慢が染み付いてるでしょ

 


みたいな単純なことではなく、

シャメのどんぐりは枠に限りがあるから、

割れば割るほど小さくなるけれど、


宇宙レベルでいうと、殻とか枠がないのだから、


永遠に分ければ分けるほど、温もりは拡がり、繋がりも無限に拡がるばかりなんですよね。


わたしは分け御霊であり、御佛の一分である。


それは驕りの真反対にあり、感謝と謙虚を表す存在です。


本日、わんこさんのひとり時間が多く氣掛りでした。


今はほっこりしています。

やっと帰宅したから。


愛を(限りある執着を含むもの)

教えてくださり、ありがとうございます。


南無阿弥陀仏。


この、肉体を超えれば、限りない

愛のまんまだから、


もうなにも傷付かない。


有り難いです。