母の日
投稿を見ていたら、何年か前に子供からもらった花など載せていました。
一過性、季節が変わり年月が経ち、心は変わる。
今年はお花はないのです。
期待に応えるのはしんどいから、これくらい見捨てられていてちょうどいいか。🤪
また、突っ張って!
自分で突っ込む。😆
今は昔、ジュラ紀のこと、
保育園の遊具で遊ぶ我が子に目を細めて蕩けていたとき、わたしって利己的なんかいな?
とふと猜疑心が過り、我が子にオキシトシンじゅわ〰、状態の自分に興醒めしながらも、オキシトシンは止まらなかった。
我が子と共に遊ぶお友だちの園児さんも等しくものすごい可愛い。
なんだけど、アレルギーやら入院やらでやっとここまで遊べるように育って来た我が子の姿が、とにかく感慨深かった。
つまりは自分の個人史の中にいる子供に胸熱くなったのかと。
ここの園長先生は運動会で
「なになに保育園の子供達が‥であるように。」
という言葉を毎年選んで発言されていた。
✨ここにいて特別大事に思ってもらえてるんか我が子は
と思う心と、
👤それって園長先生自身の自己愛やん
という心がごちゃごちゃした。
ある記事があって、
おかあさんわたしのどこが好き?
と聞いてきた娘に即答できなかったその母親が、
あなたはわたしの子供だからそれだけで大好き
ということを返した人の言葉に納得したという内容があったんですが、
わたしの子供だから
という言葉に報われて緩んで、うれしくなった自分と、
(自分がもし、そういうふうに母に言われたら、照れて表情は変えずの反面、内心小躍りしたと思う。)
自己愛やんけ!
という悪態がやっぱり入り混じった。
🧠
中途半端。
抵抗も仕切れず、あれこれ全部ひっくるめて
そういうもんやと、白黒付けずに緩める方が明らかに滑らかで、自分にも周りにもその半径が拡がり世界にも、肯定感は拡がる。
宇宙に抱かれ、自己愛の延長線にある歓びの揺れをも含め、わたしと母、自己と他者、垣根などない中に有る。
ずうっと今も今までもこれからも。
過剰に疑ったのは、恐れ、不安からの防御。
自分もみんなもどうしようもない、そうなんやから諦めよ。
暴走だけさせないように観ているこっちゃ。
おかあさん、おかあさん、おかあさん
その言葉を想うだけで涙が込み上げる。
たったひとりのおかあさん。
色々とここへは書けないけどあった。
日々痛くてヒリヒリして、鳩尾がいつも掴まれているような年月は過ぎた。
おかあさんに傷つけられ、わたしも傷つけた。
順風満帆でなかったことが、なかなか受け入れ難くも諦めた、深い深い赦しと、慈しみと尊重を育てる機会と年月と分厚さになる栄養だった。
ありがとう。
娘、まだ生きてます。
まだまだ蒙古斑取れてません。
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