プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

はいるひと はいらないひと



Yogaやリラクゼーションの最後に

寝転がってもらうことがある。


(わたしの場合はいつもではないのですが。)


アーサナにせよ、運動後にせよ、


やれやれ(*´∀`*)

タイム✨


ある種のご褒美時間にあたり、たいそう寛ぐのです。


Yogaなら、シャバアーサナ

(屍のポーズ)


といって、

仰臥位で、緊張を緩めていき、ただ横たわること。


い、い、いやされる〜🍵


みたいなひととき。


からだの背面がめいっぱいマットに接地するので、

ほんとにピカイチ


安心のアーサナ。


7分間これをやっただけで、何時間か睡眠を取ったに匹敵するくらい、

からだがリフレッシュして、

精氣を取り戻すというもの。


この長さなどは流派により、いろいろ言われていて、言い出したひとに習え

で、受け継がれて居ると思うから、


何分愉しむかは、臨機応変にしている。


で、このシャバアーサナ

終了するとき、


「目を薄っすら徐々に開けていき、ゆっくりと横から起きてください」


と静かに声を掛けるのだが、


(今はゆっくり起きることの重要性を伝えているから、そういうひとはいなくなったが。)


以前は早々に、すくっと座るひとがいた。


この深いリラクゼーションから、


すくっ!

のひとは、


ようは

シャバアーサナ事態に、

はいっていないということ。


その場に対しての信頼や

ガイドに信頼を置いていなければ、

はいることは、できないから、


まだ、信頼関係が築けていないということ。


それはこの場で、そのひとが自然体でいるか、否かの体現でもある。


しばらく動けなかったり、

声を掛けてから少し間があり、ゆったりと起きてくるひとは


うまくコミュニケーションができたひと。


はいれたひと。


一方このすくっと起きるという原因は


リラクゼーションに集中していなかった。


リラックスできていなかった。


あるいは、拒絶。


🌲🌳🌲🌳🌲🌳


はいる はいらない


の主導権はガイド側だけでなく、受け取る側にもある。


なので、なんにおいても、両者でその空間、磁場を創造していく。


当然、はいったひとの体験は深く、


はいれなかったひとに比べて、時間をまるごと愉しめたということになる。


✨✨✨✨✨✨


踊りの場であるとすると、


自分のソロを自分に振り付け、それを舞台やその場で再現するとしても、


例えばそこに、赤ちゃんがひとりいるだけで、予測通りに踊れるわけではなく、


場によって、動きも間合いも変わってしまう。


赤ちゃんでなくとも、咳、ざわざわ 受け手の受信器としてのそのときの状態や、

音響さん、照明さん、道具さん、

舞監さん、

自分の呼吸、


はたまた野外なら天変地異、氣音、湿度、天候

すべてがその条件に入ってくる。


踊りの骨格を持って場に立ったとしても、下手するとその骨格さえ、変える必要がある場合がある。


その場その場で、

自由自在に変容する


水になりきれるか?


ということが問われてくる。


その場で、どう踊るかではなく、


場を踊るのだから。


即座になにかを捨て、なにかを拾い上げる勇氣と、


誠実さが必要になってくる。


フィットネスワークに話を戻すと、


初めてひと前に立ってから

早、3万人のガイドをしてきたが、

長く続けている仕事でも、


毎回が新しく、未体験の時間に滑り込んでいく、


ゾワゾワする感覚。


どこまで進もうと

卒業もオーライもなく、


真摯に向かうしかない。


掘っても掘っても、からだからの氣付きも、内側からの氣付きも

動き出てくる。



未完成から、少しでも完成させようとすることが、


パッションの泉であるし、


また、未完

そのものが、それで充足だと思う。