プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

からだに貞く


29歳のとき舞踏と出遭った。


その舞踏のトレーニングとなるからだ作りは、


野口体操(野口三千三)

から、成り立っていた。


野口体操では、


からだに貞く


おもさに貞く


という言葉が使われる。


貞くは(きく)

で、英語にするとask


からだ(神)に尋ねる


という意味がある。


わたし達の命は、神の分御霊であり、


その魂を乗せているのが、この肉体。


だから、からだに貞く


ということなのだと思っている。


おもさに貞く


ということは


ただ、体重になる


ということだから、


あなた、体重になれている?


と問われているのだと、


すとおん


と腑に落ち、どんどん惹き込まれ夢中になった。


✨おもさ(重さ)に貞く


人間が生きているときには、意識がどうしても働くから、


完全に自分の重さになりきることはできない。


また、意識が消滅したら、重さを味わうこともできない。


なので、限りなくたくさん重さになる。


この重さになるは、


昨日書いたブログのシャバアーサナに通じることで、


頭を空っぽにして、

重さを愉しむことを追求していくことのひとつひとつが

ほんとうに新鮮だった。


23歳から生業にしたフィットネスワークは、あれやりこれやり、

筋力強化や柔軟性を向上させようとするもので、


いきなり、


ありのままになってごらん


と問いかけるような野口体操に面くらい、また


なにかになってごらん


と作ることの方がまだなんとかなり、


なんにもならなくていい


そのまんま 


といわれる方が

今ここで、丸裸にされたようで、


ほんとうの真摯さを


問われたように感じた。


野口体操のぶら下がり


(立った状態から、ちからを抜きながら、だらあんと前屈していく)


(首のちからが抜けて、

だらあんとぶら下がれているか、


肋骨のあたりから上体ぜえんぶが、だらあんとあずけられているか)


を毎回毎回深めていった。


ぶら下がりで伸ばした膝を曲げると、勝手に腰、胸、首、頭とするって立ち上がってくる。


このからだ全体の繋りについても、このときじっくり体験を通して学んだ。


からだの神聖さや


いただいた、あるいはお借りている

からだに対しての感謝も


自ずと込み上げてきた。

 

🐟 🐟 🐟


舞踏にはいろんなものがあり、


顔の表情もトレーニングしたので、


(喜怒哀楽をしっかり顔のフォームで体現する)


こんなにしわくちゃな顔になった


もちろん、そういった枝葉的なトレーニングをしないところもある。


顔のトレーニングについては、賛同も否定も、今はまだできない。


舞踏にはまり込んだときは、

産後間もなく、

ある整形外科が営んでいたフィットネスクラブの責任のある立場にいたが、


付け加えるフィットネスから、


そげ落とすからだや精神のあり方への探求が始まり、


とうとうそこを辞め、

一匹狼のフリーのインストラクターになった。


40日間の長期滞在でインドネシア公演に参加したり、


ソロ活動も始まり、踊りがメインの生活に変わって行った。


🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲


あのとき、ずっとフィットネスの世界にどっぷり浸かり、安定したポジションを獲得し続けていたなら、


また違う人生になったと思うが、


野口体操の、困るほどシンプルなものに一度出遭ってしまったら、


もう足して足して鍛える


という、本質から遠ざかる方へはいけない。


いつも思うことは、


最適最小の力で動くことの美しさに勝るものはない。


やり過ぎず、少な過ぎず。


料理の味付けであれ、付き合いであれ、纏うものであれ、

色選びであれ、持ち物であれ


この塩梅をどこまでも観る。


(ブログの文の塩梅は?)


(。>﹏<。)


         🐠 🐠 🐠


貞くに話を戻すが、


瞑想に置き換えると、


潮干狩りのような、ざわざわする想念が止んで


深いところに漂いながら潜り込んでいく体験を、

何度も何度も積み重ねていく中で、


神託が降りてくることがある。


瞑想中も瞑想していなくても、からだごとに入っていなくても、


大宇宙と繋がっているから、

自動的に行く方向や

行く時期や

今の選択が、わかってくる。



からだが空っぽになり、頭が空っぽになっていると、元々の分御霊

に還るから、


それはまさに貞く


になる。


体は


體 と書き、体ではない。


左は骨で、右の豊かは


お供物台にたくさんの作物を乗せている有り様を表している。


ひとりひとりのからだは

巫女であり、

神そのものを頂いている。


貞に人偏を付けると


探偵の偵


人偏はひとだから、


ひとが探っている。


貞くは人偏が付かないから、


神に聴いている有り様なのだと思う。


垢を落とす、

ど真ん中の


真我に出遭うことが、


からだごと。