プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

春近し

たんぽぽが咲いてきました。

御霊神社の梅も、可愛らしい色でもう終わりを告げていました。


次は桜ですね。


テレビを付けるとあの話題ばかりで、職場も休館してしまったところがあります。


うがいに手洗いや睡眠、食事、マスクなど、人事を尽くせば、あとは安心していることが大事です。


からだが痛むときは、あれもこれも悪いとこ探しに目が行くときもありますが、

そういうところにフォーカスしているときは、波動が低く、波が荒い。

(量子力学的には怒りや不安の波動もやはり波が荒い)


しかし、よい瞑想をしたあとや、瞑想者やヨガが身についているひと、離見の見を常に持っているひとは、静かな波動を持っています。


なので、やるべきことをやれば、あまり波に翻弄されることはありません。


毎日、生活しているといろんなことを言うひともいますが、氣にならなくなっています。


以前は誤解されていたり、事実とは違うことを言われたり、思われていると、悔しくて哀しくて憤りを感じましたが、今はそれがあまりないのです。


ひとつは諦めたということ、


無責任に好きなこと言うひとはどこにでもいますから。


また、わかってもらおうなんて、もう思わなくなったからです。


わかってもらうために、なにかをしているのでなく、思わずやってしまっているし、夢中にはまっていますから、


なんの考えもないのです。


なので、どう思われようと知ったことではない。


わたしはわたし。


あとはすべて、遥かな宇宙に預けたわたしでいます。


そういった柱ができたのも、瞑想やあわのうたやカタカムナウタヒの恩恵です。


源の柱と繋がっている安堵感が、ジェットコースターのような内景から、柔らかさと静けさの中にいる有り難さへと、変化してきたのです。