不自由
これは杜の桜です。
可愛いピンクの桜から、クマリンという物質が出ています。
クマリンには、抗菌、リラックス、高揚感、血圧を下げる、アルコールの分解を促進するなどの作用があります。
なるほど、桜は花見の宴に相応しいわけですね。
ところで、2週間ほど前の夕方、わんこのお散歩をしていたら、川沿いの桜の枝が折れて、道に転がっていました。
強風で折れたのかもしれません。
今日、あるひとのfacebookの投稿で、
折れた桜を持ち帰り自宅で満開にした
という記事を読み、自分には持ち帰ることが出来なかった桜のことを思い、胸が締め付けられました。
そのひとに一言、
わたしは手折ったと勘違いされるのが嫌だから折れた枝を持って帰れなかったとコメントすると、
その投稿者は、
わたしもポケットに隠して持ち帰ったと返してくれました。
川沿いで痛々しい折れた桜を見たとき、蕾がつきそうな氣配に、
このままだと、干からびて、蕾が開かないんじゃないかと、家に持ち帰り水に挿してあげたいと本能的に感じたのですが、実行出来なかった。
わたしの中に、怖れがあったからです。
折れた桜を持ち歩く姿を見たひとは、わたしが桜欲しさに手折ったのだと勘違いするのではないかと。
何年も前ですが、濡衣で非難中傷される経験が何度かありました。
その屈辱、無念を晴らすなどというチャンスは、大岡越前でもあるまいし、なかったのです。
まあ、無いことの方が多いのではないでしょうか。
真実をすぐに発くことが出来る環境なら、濡衣発言を吹聴することは出来ないですし‥。
違う、違う、という悔しさを、いちいちひとに話しまわることなどあまりに不細工で出来るわけもなく、呑めないものを無理やり呑み込み日が経ちました。
まあ、そんなこともからだの奥底の記憶に仕舞い込まれていたのですね。
普段はもう全く忘れていましたが、
勘違いされたくないという怖れが、自分の中に横たわっていたことを自分の取った行動から、まざまざと見せつけられました。
自分の中の怖れ。
ひとの目。
事実なら致し方ないですが、勘違いはされたくない。
しかし、
facebookの折れた枝から見事に咲いた桜の写真を見たわたしは、
もう何と言われてもいい、まだ転がっていたなら、花を咲かせなくちゃ、もう周りの桜たちは咲いてきたのだから。
その一心で川沿いのあの木の下に行きました。
川と反対の、ひと目には触れないところまで転がって、半ば蕾が茶色に成りかけたあの、折れた桜をみつけました。
よかった、間に合うかな?
桜咲くかな?
片手にリードを握り、反対側の手には桜。
ザクザク歩きました。
予測通り、すれ違う初老の女性にギロリと睨まれました。
まあ、それとて折ったの?赦せないわ!
かどうかは、ひとのこころまではわかりませんが。
だから、勝手に自分が作り出した、睨まれたという感覚なのかもわかりません。
帰宅して、リードを外すより先に折れた枝をバケツの水に挿したら、ほんとにほっとしました。
やりたかった行動を素直に出来たから。
折れたささくれたところから、水を吸い上げて復活してくれる可能性があるから。
実はわたしは、もっともっとひと目など氣にしない、かなり自由な人間なんじゃないかと思っていましたが、
そんなことはなかったのです。
まだまだまだまだまだまだまだまだ、小さく弱い人間でした。
桜から教わった一日でした。
コメントを返してくれた投稿者であるN子さん、ありがとう✨🌸
Nさんに助けられて、花を咲かせる天命が果たせてよかったね。
おめでとう🌸🌸🌸
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