動いてるよ
ストレッチをするとき、可動域を広げようと、少し無理なところまでからだを伸ばそうとするひとは多いです。
グループワークである場合は張り合うとか、固いからだを見られるのは恥ずかしいとかいう無意識の構えや、
個人指導でも、無理なところまでしないと氣が済まない、
やった氣がしない。
無理と努力が混じるくらいの負荷の掛け方に慣れきっているひともいます。
そういった方は静的ストレッチ
(じっと動かずに同じ姿勢を取るストレッチ)
でいくら心地よいところまでと言葉掛けをしたり、力を抜いてと促しても、やはり力んでいる。
無理なストレッチになると、からだの防衛作用によって、筋肉は固くなってしまう。
伸ばそうとする意志と、からだの嫌です。
無理です。
という反応が闘ってしまう。
意志とからだが統合されているときは、呼吸も自ずとその動作や有り様に相応しい状態になっていますが、意志とからだが闘っているときは、息はスムーズではありません。
全体の統合がうまくいかず、からだとのコミュニケーションができていないのです。
今まで、息を吐く度に重さを味わうように促したり、前屈ならお尻から踵や足の指先までの長さを感じてもらったりしましたが、
またまだ、力みが取れないひともいます。
力んでいるときは、首に力が入っているので、お尻も太腿裏もふくらはぎも足首も伸びるわけがありません。
掛ける言葉は何通りかありますが、
今日はそれではなく、
静的ストレッチ、
静止しているという有り様について記します。
止まるとガシッと防御装置が働き易くなります。
止まっている、伸びに直視、切れるう〜
ヤヴァイ!
というからだの反応。
実は全く静止してはないのです。
外側のからだは静止していますが、
心臓は動いているし、呼吸もしている。
内臓も動き、体液は流れ、血流もあります。
脳も動いている。
だから、静止状態に対して、固まる必要がないのです。
止まっていても、からだの内側では血が流れ、呼吸をし、体液は流れ、内臓も動き、心臓はビートを刻んでいて、脳も動いている。
だから、防御する必要がなくて、内的動に意識を預けていると、どんどん制御装置がオフになり、身もこころも、伸びていくところを受け入れる状態になってきます。
止まってる、ヤヴァ!
ではなく、累々と内的には動いているから、怖がることなんかなかったんだということです。
からだごとの氣づきは、まるごと、こころの働きにあてはまります。
無知は恥ずかしいからと、わからないけど、わかったふりをして、頑張っているとき、わかっていないという事実と、わかったふりという繕いが壊れないようにばかり氣を遣ってしまうから、
精神が消耗し、物事の理解に必要な集中ができないです。
素直に、あるがままでいたら、こころは軽くシンプルですから、そのものにしっかり取り組むことができます。
必要以上の力みでぐいぐいやるのも、今の自分を認めていなかったり、受け入れていないのではないかと思います。
人間のからだは、頑張らなくても、今まさにやろうとするときには、抜群の集中力と自発的なやる氣で、最も疲れず最も優れた観察力や統合力で最高のことをやり遂げています。
自分を信じること、自分の全てを受け入れること、
自分のからだを信頼してあるがままを愛すること、
それこそが、各人を開いていく入口であり、こころとからだを解き放つきっかけであると思います。
こういったことを、からだごとから学ぶます。
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