プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

願掛け


自分の願いってなんなんやろう?


ずっと周りのひとがしあわせであるように

と思ってきた。


善人ぶっていいカッコしているわけではなく、自分自身が日々至福を感じて暮らしていたいので、


デカイ家がほしいわけでも、恋人がほしいわけでもない。


ましてやたくさんの仕事をゲットしたくもない。


時間を取られるのがもう嫌なのだ。


散々働いてきて、両親も見送り、子どもの世話をし、養ってきた。

それは二度とない宝の時間でもあった。



長い年月のほとんどが、家族を育むためだったし、呼ばれると仕事に向かうこともまた生き甲斐だった。


人生の冬に差し掛かり

ここらで当たり前のことを

いや、当たり前はないな

生活だな


日々の生活を丁寧に愛でたい。


これしか浮かばない。


例えば掃除や料理や散歩なんかのデイリーライフを、ちゃんと丁寧にこころを込めてやりたい。


時間に追われて義務的にするのではなく。


なので、周りのひとがしあわせであるように

と思うことで、自分が氣張らずに緩やかなこころでいられると感じるので、自然にそう祈るようになった。



自分にああしたいこうなりたい

とか願掛けしたら

しんどいじゃないか。


苦しい!


目標設定とかもしたくない。


やっぱり息苦しい。


それよりも、おのずと日々のなにげない生活のひとつひとつを丁寧に、ありがたいというきもちで向かえるからだや精神の状態でいたい。


でも、先日お社に行ったときにこころが動いた。

そこは30代のときにわたしが舞を奉納したお社だった。

そのお社の舞殿の前に立ったとき、


また、この舞殿で舞を捧げたいとふと感じた。


日々、祈りの生活を繰り返していたい。


祈りをからだで現すことが舞でもあり、またヨーガでもある。


誰ひとり見ていなくても、ひとつひとつのアーサナを丁寧に捧げるとき、舞殿でなくとも、しあわせの中にいる。


祈ることはずうっと続けている。


ああ、だからまだ、自分でいられるんだ。


踊りは祈り。


なにが踊りなのかなんてまだわからない。


手本を模倣することが踊りではないから、なにが踊りなんか今もわからない。


こころが震えてからだが蠢いていったり、からだが春になって、川になって風になって

また肉になって石になって固まって


また緩んで赦されて流れて


そんなのが踊りなのかもよくわからない。


それでも、よくわからないままに不器用に模索し、困ったり赦されたりを繰り返すような時間はまだまだ置いておきたい。