わたし覚えません
がんこもんのわたしは、
塩田先生に
「あわのうたを覚えてください」
と言われたのに、覚えようとしなかった。
なぜかと言うと、
覚えるというのは、体験がないのに、空々しく手を出しているような氣がして、
あわのうたに失礼で、
プロセスと結果が噛み合わないことが、ちぐはぐできもち悪く感じたから。
繰り返すというプロセスの結果が覚えてしまっていた
が、しっくりくる。
あわのうたというのは、日本古来の遥かに大きなパワーをもつ言葉。
そのうたが染み込むまでは、記憶させるということに手を染めたくなかった。
繰り返していれば、必ずからだの中に刻印される。
だから、頭優先に覚えてしまうより、遅いかもしれないが全身全靈の体験の証が、覚えてしまっていたね✨
でありたかった。
受験勉強にしたくもないし、年表空覚えにもしたくなくて、
プロセスと記憶が噛み合う、
つまりは覚えるということに手を染めたくなかった。
それほどに大事にしたかったから。
で、知らず知らずに、空でうたえるようになっていた。
ご飯を食べるとき、無我夢中で手掴みで食べた経験
そのとき、食べ方を先に習得しなかった。
食べたいが切にあって、繰り返していくうちにどうやったら、食べやすいかがおのずと習得された。
あわのうたも生活になっているのだから、必ず定着する。
✨ 🌲 ✨ ☀ 🌳
寿ぐ、命を。
今ここに居るというこの生命体を祝ぐ。
嬉しくて、一日何度も何度も口をついて出てくる。
ときに無言で唱える。
意味など考えていないが、なぜか笑顔になり、
朝の散歩で
道行くひとに挨拶をしても、挨拶が返って来なくとも、ちっとも空振りの感覚がなく、届いているということがわかり安心している。
挨拶という言葉が返ってこなくとも、行きゆくひとに入っているのがわかる。
般若心経も、覚えられるわけないと思っていたし、記憶しようと一度も努力したことはないが、いつしか覚えていた。
三十代だった。
ひふみ祝詞も、大祓いの祝詞も
いつも覚える氣などなく、ただ祝詞が書かれたものを見ながら祝詞をあげ、
あくる日も
あくる日も
あくる日も
祝詞をあげていると
知らぬ間に空で祝詞をあげている自分がいた。
からだに刻み込むことを、繰り返すことで赦された。
定着した。
大切なことは、必要な時間を掛け、豊かに、からだ、全身全靈に染み込ませたい。
あわのうたはわたしの全体であり核である。
般若心経も祝詞もわたしの精神の、血であり肉となっている。
生かされていることを日々祝ぐ。
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