プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

滝 昼寝 微睡む


昨日は阿弥陀ヶ滝に訪れました。


滝つぼの賽の河原はまさに胎蔵界。


しっぽりと滝つぼに佇み、

湿氣、苔、石、土、空間

滝からの清水の飛沫や滴る冷たさをからだいっぱいに受け取りました。


川に足をつけ、ただただぼうっと時やこの特別な場を愉しみました。


水は浄化、祓い、禊、清めです。


そののちに、鮎料理のコースをいただいたのですが、


どんなコースも余裕で平らげるわたしが

途中からお腹が満腹に。


エネルギー満腹で、食への容量がなくなっていたのではないかと思いました。


今朝はいきなりの代行仕事を終え、うたた寝してしまいました。


💤💤💤💤💤



クラシック音楽を掛けながら寝ていました。


目が醒め、微睡みの中で広がる世界。




ここはホールの客席です。

母がいます。

わたしはまだ小学生になるかならないくらい。

客席で上演している演目を母と立ったまま見ている。

もうすぐ自分の出番。

楽屋に行くときを見計らいながら、クラシック音楽の物悲しくも美しい伸びやかな旋律に聞き入っている。


(しかし、うっとりと音楽の完璧性を味わい込めるのは今のわたしだからだというのも、わかっていました。今、幼い自分に戻りながらも大人の感性で聴いています。)



バレエの発表会の情景が夢うつつの中に広がっていました。


もっと母を、幼いわたしを観たくて、しばらく現実時間に帰ることをやめ、束の間、過去の母とわたしを観ていました。


母がわたしを見る眼

優しく我が子を見る眼


胸が熱さでいっぱいになり、

また、母を失った哀しみや寂しさが込み上げてきましたが、


すぐそのあと、

あのときに、あの菩薩さまに愛され、わたしはしあわせだったのだなと

想うようにきもちを変えました。


母を失ったのではなく、母から愛をいただいたのだと。


菩薩さまというと優しく、寛大な器の広い……。


と思われるでしょうが、実際の母はわたしが母の思うよい子のときは


菩薩さまのようでした。


が、母の期待からどんどんはみ出して行くわたしを見ていた母は


寛大の真逆で、ほんとうに憔悴仕切っていました。


愛すればこそのもがきです。


血が通った生身を持った母の愛ですから。



わたしは親不孝です。


そんなこんなはこの投稿には書き切れませんが、


大好きだったむかしの母と再び会うことができて、とても嬉しいです。


母は永遠に愛しいです。

修羅の母、わからんトンチンカンの母、

みんなみんな愛しいです。



🏞️


実は滝というのは出産を表します。


滝、母の体内から外界に押し出される。


阿弥陀ヶ滝は、漢方薬のようにあと効きしていくのかもしれません。


こころもからだも思わぬ動きをしだす。

すべて、仕組まれているのだと眺めています。


泣けなかったわたしは

曼荼羅ねり絵、箱庭、滝

と泣けるわたしに変わってゆきました。


たまりに溜まって地層になっている涙。


時をかけ、解けて流れてあっけらかんともっときっとからっぽになる。


いただいた時間に感謝いたします。