プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

こんばんは


先日、毎日ラジオ体操に来られる70代半ばくらいの男性に


「川沿いのグミが赤くなるのを待っているひと」


みたいに、大勢のひとの前で言われて


グミは何年か前に2つ食べたらもう、渋くてそれからは穫りもしないから、


不快に感じたお話をブログに書きました。


実はそのおじさんが、数日前に

明日来るか?

と聞かれるから


「まあ、わんこの氣が向けば来ているかもしれません」


と生返事をして

翌朝、


なんか氣になり、


朝にその辺りをわんこと散歩していたら、


そのおじさんが現れ、

ポシェットから、チェックの柄の入った可愛らしいタッパーを取り出しました。


「さくらんぼ🍒好きか?」


「これ持って来たんや」


と言って、

タッパーに入った国産の赤いさくらんぼをくださったのです。


わたしは人前で川沿いのグミが熟すのを待つ、食いしん坊なひと


と揶揄されたように感じて、傷ついていたのですが、


どうやら違っていたみたいで、その日に聞いた話では、


グミは全滅だったらしく、

みんなカラスが食べてしまったみたいで、

グミが赤くなればわたしにあげようと待ち構えていたけれど、


カラスに先手を行かれたことを話されました。



それで、グミを懐かしい

と言ったわたしに、グミの代わりにさくらんぼを持ってきてくださったのです。


なんてお優しい🌸


わたしは恥かいたと思い

嫌な氣分になったのだけど、


そのひとはそんなつもりで言ったわけではないことがわかりました。


🌳🌳🌳


わたしのこの一件もそうなんですが、


過去にあることないこと、吹聴された経験があり、


現在の事実ではないことをひとに話すひとを、ほんとうに警戒し、恐れていました。


つまりは過去の嫌な記憶から、

無意識に嫌な氣持ちになっている。


また、それを言われた後は、


いやしい欲張りなひと

みたいにみんなに広まるのだろうな


という未来への不安。


過去のデータで今起きている出来事を感じ

未来不安に陥る。


これこそが、勝手にストレスを溜め込む要因なんですね。


もう過去には戻れないし、未来にも今は行けないのに、


今を充分生きていない。


瞑想をし、日々生活すべてが瞑想だと感じているのに。


群衆の前に行くと


傷付くんじゃないかと防波堤がガアンと建つような状態。


おじさんのことを悪く取ってしまい、別にみなさんに、いやしいなどと思われてもいないのに、


ひとりで落ち込んでしまった自分の癖。


この歳になってもまだあるんだな


と確認しました。


冤罪も嫌だし、あることないこと吹聴されるのもごめんで、深くこころが傷付きます。


ですが、

今を澄んだ眼差しで観ることで軽く楽しく暮らせます。


🍒


さくらんぼは、買うことはありましたが、


わたしが食べるものではありませんでした。


果物は息子や娘が食べるもの


というふうにずうっとしてきたから、

さくらんぼは娘のために買い、娘に出していました。


(ここ2年くらいは自分のために柿や無花果も買います、

でも、びわはまだ自分のためには買えない。高価ですから)


さくらんぼが

こんなに甘く可愛らしく美味しいということに感動しました。


アメリカンチェリーの

もう傷みそうになったものは食べたことがあります。


まだまだわたしには果物は贅沢品。


でも、子供たちが全員自立したから、自分のために

食べたい果物も食べようと思います。


そうは言っても、

やっぱりさくらんぼは自分のために買うことはたびんまだできません。


だから頂いたさくらんぼが貴重で、ほんとに美味しかったです。


ひとつひとつのさくらんぼを

絵に描きたいと思いました。


眺めて絵に描いて、

それからお仏前に供えてからいただくのなら、

贅沢ではありませんね。


おじさん、ありがとう。

そしてごめんなさい。