プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

からだを掘り下げる


朝からスポーツクラブに来られ、朝のクラスを受け、昼ごはんを軽く食べ、また受けて、日に3〜4本のクラスを受講されて帰られる。


入館料、受講料が一日いくらだから、バイキングのように受けられるだけ受けておられるのだと思う。


今のフィットネスは集客に駆使しているからか、ひと月でひとつの踊りをマスターするシステムになっているクラスがある。


1回目を受ければ最後まで受けたくなり、3回目に来れば次は始めからというふうに、毎週来るという歯車に嵌っていくようにできている。


一方バレトンは、その回で動きをゆっくり覚えていき、ひとクラス完結。


月半ばに来ようが、一時的に来ようが、どこからでも受けられる。


これはわたしのどのクラスにおいてもおなじこと。


そうすると、歯車型に嵌るひとには、単発で完結するクラスは、またいつでも受けられる、となるから、踊るの大好き、おもしろいのがいいというひとにとっては、是が非でもというクラスにはならない。


バレトンでもプールでも土日のヨガや動的クラスでも、ほんとうにからだにどっぷり入り、いつ来ても大丈夫なクラス、

それはまるで、ずっと公園にあったあの木のように存在しているクラス。


そんなクラスがあってもよいと思う。


3本、4本と受講される方は、疲れていないのか?

集中できているのか?


わたしなら、1本か、多くて2本で充分。


若いときよりひとつひとつの動きがしっかり入るし、掘り下げてからだに向かうようになったからだ。

そしてあとはゆったりストレッチでもして完了。


ひとそれぞれ、施設の使い方は自由で、どういう使い方が正解でどういう使い方は不正解というのはない。


ループ型になっているクラスにひとが集まり、一本完結型は後回しにされるのであれば、今いるところの力の渦が、わたしにもうフィットネス界を見極め、進路を変えるところにきているのだと思う。


かつて、36年前、この世界に入り、1、2年は足並み揃えてクラスをしていたが、クラシックバレエのからだの使い方が血肉になっているわたしには、からだをパーツとして見るような指導のあり方に限界を感じた。


その後、フロアームーブメントなどに通い確認をし、やはりからだで手足を屈曲させ、からだで手足を伸展させることを指導してきた。


そのときも異端ではあったが、理解を深めたひと達のからだは、みるみる柔らかく強く統合されていった。


また、統合されていないところがよくわかっておられた。


✨✨🌲


10年ほど前、35年前に指導したひとに会った。


「あのとき、先生が言っていたことが、今言われてますよね」


そう言ってくれた。


わたしが、20代の頃に伝えていたことをずっとからだの記憶に落とし込んでくださっていたのだ。


そういった意味で、時代的にいつもマイノリティのところに身を置いてはいるのだけど、わたしにとってはそれは使命なのだと思っている。