なにものでもない自分
最近は電車の中で瞑想をしたり、自宅で瞑想をすると、眠氣に襲われ
意識が見当たらなくなっていましたが。
昨日は久々に自宅を出る前に瞑想をしたとき、20分と短い時間でしたが、自分の深いところに降りていけました。
自然に日課になっていますが、自分の深く降りていくときのことを書いてみます。
目を閉じて瞑想の旅に入りますが
まず自分の中のチャットが潮干狩りみたいに始まります。
そのあと、えっ?
こんなことまだ思い出すことあるの?
といった過去の印象的な出来事を思い浮かべるときもあるし、
そのまま乗り物に乗って深いところへ落ちていけるときもあります。
いずれにしても
チャットは表層の自分の考え
思い出すことは
自分の想念
それを掘り下げて定義付けをしたくなります。
定義付けした方が
引き出しに入れ易く、ある意味楽だからです。
引き出しに入れれば、もう観なくていいからです。
で、定義付けはもうしません。
また乗り物に乗り深いところに降りていくと、
し〜ん
なにもない
なにもないを味わっていることさえ忘れているような
開放された
真空感を感じます。
そこでなにものでもないわたしに出逢います。
どこでなにをしていても、そこに存在するのがわたしです。
また、わたしでありすべてに溶け込んだ、分断のないわたしであり
全体です。
その場所があるため、
うまく行くうまく行かない
に全身持って行かれることもなく、波の大小中を観ていられます。
わたしイライラしているとか、わたし悲しんでるとか、わたし寂しくなってるとか、
わたしワクワクしているとか、
観ているので、わたしは感情でも意志でもありません。
風呂の締めは瞑想です。
長居はできませんが、
これがあると、今日もよかったね
と一日を愛で、明るい一日にすることができます。
35歳は25歳にはもどれません。
一日一日36歳に歩いていくわけで。
失う一日を愛でて手放す
時間は止められないけれど、これくらいはできるかなと。
明日もきっと必ず最高の日✨
そう決めています。
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