プティハッピーの花束

日々の中で取るに足りないような小さなしあわせに氣付くこと

桜 菜の花 たんぽぽ

桜は日本の代表的な花


桜の花見にみなが繰り出し桜ばかりがちやほやされるのに、むかしから違和感があり、


桜の多様な美しさに魅了されているし、蕾がどんどん膨らむ桜が嬉しいのに、なんかやっぱり引っかかるものがあった。


今日は満開の桜が咲く川沿いを、植物園の横辺りまで上がって行った。


しだれ桜、ソメイヨシノ、カイドウザクラ……。


色の濃淡、花の大きさも形状も様々でうっとりする端麗さ。


花はみんな下を向き、わたし達に顔を見せてくれている。


モクレンは天に天に向かい、ツツジも梅もひまわりも真っ直ぐ前を向いているのに、


スズラン、桜、蛍の袋は

下を向いています。


スズラン達は小さく、虫たちに話しているのかもしれません。


なぜ桜ばかりが派手にちやほやされるのか?


派手でわかりやすい、ある短い期間しか咲かない桜はなんだかずるい感じがする。


年がら年中咲いているたんぽぽや、長い間野ぐさのように咲く菜の花もとても可愛らしいのに、身近だからちやほやされないのか。


たんぽぽの花見とか、菜の花の花見で、弁当を食べるとかあんまり聞かない。


可愛いのに。

長く咲き強い花は大事にされないのか?


たんぽぽのあの明るい黄色の花が土やアスファルトの破れ目から、へばりついて咲いているのは、小さいときから見ていて、幼稚園のときのわたしが出てきたりする。


小さいときは、桜の下は入学式、卒業式に写真を取る場所だと思っていた。


でも、地面に咲くたんぽぽは小さいときのわたしにも手でたおることができる身近な存在で、丈夫に咲く菜の花も氣さくな花だった。


たんぽぽも菜の花も、幼馴染みみたいだけれど、桜はなんか少しきれいすぎて、親しみが持てなかった。


そんなことを感じながら、なんでなんかな?

とよく思った。


桜が優等生でちやほやされる存在なら、たんぽぽも菜の花もおっとりとよく笑う、親近感のある友だちみたいだ。


観光客に桜の下に咲いていた、たんぽぽが踏まれているのを見たのは、今から20年くらい前になる。


それからは、ますますたんぽぽやカタバミやシロツメクサや紫ツユクサたちを守らなくちゃと思った。


桜に罪はないのに、なんだか桜が嫌いになった。


桜が満開のとき、母が退院し、それからあっという間に天に召された。


退院のときのタクシーの中で、満開の桜を


「満開! また花見に行こうね」


と話しても


お腹が痛くて擦る手をやめなかった母。


満開の桜どころではなかった。


桜はひとをしあわせな氣分にする香料を持っている。


川沿いの桜道を歩くたび、何年分かの思い出が、昨日のことのように蘇る。